et sona の暮らし方改革 / 移住の記し no.3
なぜ移住? 〜 農作業への理解が深まると、移住への比重が高まった
なぜ移住? 一言でいえば、自分の手で農業をやってみたくなった。
お店をオープンした2007年当時、義父は広島で有機農場の社長をやっていたし、うちの両親も島根で兼業農家をやっていた。ついでに言うと、弟は農協に勤めていた。もうこの状況なら、自家栽培の野菜(や米)を使ったお店にするのが一番だよね、ということで、et sona(〜と野菜)という屋号にし、野菜料理専門ではないにしろ、野菜を中心とした料理でいこうと決めた。
自家栽培野菜、そのメリットはなんといっても、あれ作ってくれ!、これ作ってくれ!、こんな風にしてくれ!、が言えること。まぁ、言うほうは、農薬や化学肥料は使わず(雑草も生えっぱなしでいいから)出来うる限り自然なかたちで栽培して欲しい!、などと要望を投げるだけでお気楽だけど、作るほうは大変。当初は、ちょくちょく母親から、「あんた、どがぁせぇ言うとったかいねー?」、「ありゃあ出来んかったでね」、「こりゃあ、どこを採るんかね?」、と連絡がくるのもしばしば。クレソンも、「東京の人はこりょを食べるんかね?(田舎じゃ誰も食べんよ)」といった感じ。
ちなみに、この当時、島根の畑のすぐ脇を流れる沢に大量のクレソンが自生していて、これを使って看板メニューが出来ないか?、で始まったのが「タコと昆布、クレソンのサラダ」。大変ありがたいことに、11年間、看板メニューであり続けてくれた。
その後、多くの方のご愛顧により、お店はなんとか続けることが出来ていた2011年、あの東日本大震災! 福島第1原子力発電所事故とも合わせ、多くの人が不安に苛まれ、それぞれの生活に関わるあらゆる事に疑心暗鬼が生じた年。この時、店では特段西日本の野菜と謳っていたわけではない(というか、そんなことは一度も言ったことがない)けれど、売り上げは大きく伸びた。
がしかし、2012年、2013年と、梅雨時期の大雨や台風による水害などもあり、自家栽培の野菜は思うように収穫できない年が続いた。クレソンに至っては、度々の増水で畑の周りからはすっかり姿が消えてしまった。看板メニューが、1年のうち半年もない…。これはちょっとマズイな、と一念発起。2014年の正月早々、(減反政策により)30年近く休耕地となっていた田んぼをクレソン圃場とするために開墾。もともとが田んぼなため、水路さえ使えれば、水量をコントロールでき流されることもない! 幸い水路は問題なかったが、なにせもうただの荒地。重機や管理機を入れられない場所(山からの水は最上流で引き込めるが)なので、すべて手作業。一気に作業を進めることが出来ず、その年、何度か帰省し徐々に圃場を整備。
どうやら、この時に、「作る」スイッチが入った!w
生ハムをはじめ、自家製ハムを充実させようと思い立ち、実践したのもこの年。クレソンを、流されないように管理(栽培とは呼びたくないw 水量だけをコントロールし、なるべく自然なかたちで放置)できると、次の年には、種取りをし循環させることでその土地に馴染んだ種が残る固定種でパクチーを!、固定種でケールを!、となっていった。
それ以降、毎年、2ヶ月に一度のペースで広島ないしは島根に帰省し、農作業を行うようになり、これまで、どれだけ軽い言葉で、あれを作ってくれ!、これを作ってくれ!、と言っていたのかを実感。少々反省しつつも、いやもうこれ、自分でもやるしかないな!、などと思うようにもなってきた。
どなただったかが、野菜の美味しさを決めるのは、
・品種
・旬
・鮮度
と言われていたが、良質な個体を、適切な時期に、なるべく早く調理/口にする、というのは至極当然だな、と深く納得。これを実践するには、もう、台所の近くに畑、が理想だな、と。そんなことを考え続けると、「山の中で、畑に囲まれたポツンと一軒家」の絵が脳内に浮かぶようになってきた…
続きは、おいおいw
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