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マレーシア史上最悪の事件が起きた日

 きょうは5月13日。日本人にはあまり知られていないのですが、この日はマレーシア史上最悪の事件が起きた日なのです。この日を境にマレーシアの政府の政策は一変したと言っていいでしょう。

 5月13日事件と日本語で言いますが、英語では13 May incidentと言っています。13 May tragedy という言い方もあります。

 今から54年前の1969年5月13日。クアラルンプールでマレー人と華人の民族衝突がありました。

 これは5月10日にあった下院総選挙の選挙結果で与党勢力の議席を大幅に減ったことが直接の原因。13日夜にスランゴール州のハルン・イドリス州首相(当時)公邸(現在のカンプンバル地区)で数千人による抗議運動がおこなわれる予定でした。

 ところが、抗議運動に向かうマレー人が途中のスタパック地区で華人といざこざとなり、そこから暴動に発展。口コミが口コミを呼び、わずか一時間以内にクアラルンプール市内全域で騒乱に発展しました。華人勢力は秘密結社のギャングたちも刀などを振り回し、さらに与党の統一マレー人国民組織(UMNO)本部を焼き討ちしようとまで計画されました。

 治安部隊は各地に出て、抑え込みましたが、両民族とも血なまぐさい争いになり、24時間の外出禁止令が出されました。

 治安制圧のため軍には「外に出た者は撃ち殺していい」との命令が出されていましたが、禁止令を知らぬままに外出した人らも撃たれる事態に。軍のほとんどはマレー人で、華人がほとんどやられる結果ともなってしまったのです。

 事態は翌朝までにほぼ収まりましたが、公式の死者数は196人。負傷者は439人。しかし、死者数はもっと多いと見られていますが、もはや誰もわかりません。華人の死者が最も多く143人で、インド人も13人が亡くなりました。

 5月13日という日はこういう日だったのです。全土で震撼させたこの事件は今もって60代以上のマレーシア人に精神的に深く傷が残っています。

 なお、この事件の後の6月28日にもスントゥル地区で騒乱があり、ここでも15人が死亡しています。

その後

 政府はこの後、非常事態宣言を発令。憲法の停止と議会の凍結がなされました。

 議会は21か月にわたって凍結されましたが、この期間に政府は今のマレーシアの政策の原型を作り上げます。

 まず、作られたのが国是となるルクヌガラ。インドネシアのパンチャシラを模倣した5つの国家方針を出しました。これは現在でも有効です。
 
 政府は、この事件の原因を民族間の経済格差と結論づけました。マレー人は農民が当時多く、一方で華人は商人。得られる所得の格差が激しく、嫉妬も含めた心理的なものが真因であったとしています。このため、新経済政策を打ち出し、マレー人を含むプミプトラを経済面で優遇する政策となりました。有名な「プミプトラ優遇政策」です。

 さらに、民族間の感情を逆立てる行為や発言に対して処罰の対象となる法律がその後次々と改正・成立しました。扇動取締法や治安維持法は独立前後からありましたが、これらが強化されました。令状なしの逮捕や拘束期間は裁判所が決めたりと今では人権問題で取り上げられる内容となりました。

 これと同時にどのマスメディアも同じ内容を報じることになりました。新聞やテレビは今でも多数あるのですが、ほとんど各新聞の特色がない、スクープは殆どない、政府発表のみを報じるといった態勢で今でも行われています。言論の自由がないと指摘する声もあるのですが、背景には、政府が民族間の暴動を極端に恐れた結果なのです。1つの敏感な内容の発言で大暴動に発展する恐れは今でもあり、ソーシャルメディアでの発言に警察は特に注視しているようです。

 また、政治的には議会が再開されると同時にほとんどの政党が与党化。小政党も与党になり、大与党連合が作られたのです。各政党が連合政党を作って選挙に打って出て政権を作ることはそれまでも行われていましたが、これがさらに拡大したのです。

 主な影響というのは上記ですが、この事件は精神的な影響を深く残したことが大きいと言っていいでしょう。学校の歴史の中でもこの事件にはあまり触れられず、今でもどこかタブーとされているような雰囲気があります。一時期はこの事件に関する内容や民族感情を煽る内容の出版は禁じられるなどしました。また、マハティール元首相が1970年に発刊した『マレー・ジレンマ』は過激な内容であったため、発禁処分になりました(同氏が首相となった1981年に解除)。

 2018年にマレーシアは初の政権交代がありました。僕は当時、マレーシアにいましたが、このときに政権交代の報道が出ると国民の間で5月13日事件の再来を憂慮しました。特に華人の間では自発的に外出しないといったこともおきました。結果的には何も起きず、平和裏に政権交代となりましたが、人々、特に60代以上の人たちの間で精神的な深い傷を負っている証左だったでしょう。暴動がその時には発生しなかったのは精神的に成熟したとも言っていいのかもしれません。


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