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総選挙直前 マレーシアの政党を紹介 1

11月19日は下院総選挙。今回はあまり知られていない代表的な政党の歴史を3回に分けてご紹介します。初回は1957年のマラヤ独立以前から与党として勢力を維持していた統一マレー人国民組織(UMNO)(読み方はアムノ)についてです。

政党は独立前に出てきた
 その前に1957年にマラヤ連邦が独立する以前にどのような政党があったのかをみます。

 政党として最も早くマレー半島で設立されたのはマラヤ共産党です。1928年にシンガポールで結成された「南洋共産党」を前身として1930年に創設されました。これについては大きく議論できるトピックですので、あまり詳細に立ち入りませんが1948年に武装闘争をしてから共産党は今でも非合法の政党となっています。1989年にはマレーシア政府と和解しましたが、長く共産党党首だった陳平は入国が許されず、2013年にバンコクで死去。政府はその後も遺灰の「入国」も禁止していましたが、2019年になってこれが許され、ペラ州イポー近くに秘密裏に埋葬されました。

 1937年6月には左翼的思想をもったイブラヒム・ヤーコブらが「マレー青年統一連盟(KMM)」を結成。幹部はスマトラ島からの移民が占めました。反植民地主義を標榜し、植民地体制によって政治的に切断されたマレー半島と現在のインドネシアの統合を訴えていました。しかし、マレー人の間ではあまり浸透せず、植民地政府からの弾圧も受けて活動はままなりませんでした。

 イブラヒム・ヤーコブは1945年にインドネシアに「亡命」したため、残されたメンバーだけでマラヤ・マレー国民党(KPMM)が同様の主張で結成されました。しかし、こちらもマレー人の間で大きな勢力となることなく、歴史の彼方に消えていくことになります。

マラヤ連合反対でUMNOが出現
 本格的に政治的な勢力として生まれたのが、1946年3月に創設されたUMNOです。UMNOが結成されたきっかけは、1945年に「マラヤ連合」構想をイギリス植民地が画策したのがわかったためです。

 「マラヤ連合」とは現在の「マラヤ連邦」の原型になるものですが、マレー人にとってこの構想は受け入れがたいものでした。スルタンの権限の縮小や大陸からの中国人などの移民も含めて平等に市民権を付与することに対し、マレー人は激怒したのです。当時は中国人の人口が一部の州でマレー人を上回っていたため、中国人人口が増加することで政治的に力を失うのではないかという危機感もマレー人の間ではありました。また、マレー人にとってこの重要な問題をスルタン9人だけが決めたことにもマレー人は怒りました。

 そして、この問題に猛反対して一躍有名になったのが、ジョホール州出身の政治家のダトー・オンなのです。彼は全マラヤ・マレー会議を開催し、数万人の抗議集会を開催。マレー人社会の広範な支持を得て、同年3月にUMNO(マレー語略はPEKEMBAR)を創設して総裁に就任しました。英語名は45年に創設された国際連合(UN)を元に考案されましたが、現在でもマレー語名やマレー語略を使うことはほとんどありません。

 彼の功績はマレー人のための政党UMNOを創設しただけでなく、それまで各州バラバラだったマレー人のアイデンティティーを一つにまとめて覚醒したことにもありました。つまり、クダ・マレー人やスランゴール・マレー人といった意識よりもより広範で州の境を越えたマレー人の意識を覚醒させたのです。

 イギリスは1946年にマラヤ連合を一方的に導入したのですが、彼はここでも強力なリーダーシップを取ります。それまでのスルタンはマレー人にとって現人神のような存在でありましたが、オンは「マラヤ連合の創設式典に出れば、マレー人大衆を敵にまわすことになる」とスルタンたちを脅しました。スルタンたちも大衆なくして自分たちの地位が保持できなくなることを認識し、それまでのUMNOによる大衆動員もわかっていましたから、この「脅迫」を深刻に受け止め、イギリスの式典にスルタンは誰一人として出席しませんでした。スルタンの権限で物事が決められるのではなく、大衆の多数意見が政治に反映させるようにしたオンの功績はここにもあります。

1950年代に現在の政党体制ができた
 しかし、オンは1951年にUMNO総裁を辞任します。独立に向けて非マレー人への党員拡大を主張しましたが、党内で猛反対に遭ったためです。この頃からオンは華人やインド人との協力なくしては独立は得られないと認識しており、そのためには一つの政党にさまざまな民族が加入できるようにしたかったのです。

 オンは総裁辞任後に全民族の統合を目指した独立党(IMP)を設立しました。しかし、翌年に実施されたクアラルンプール市議会選挙でUMNOは、1949年に創設されたマラヤ華人協会(MCA)と選挙協力して圧勝した一方で、IMPは惨敗して解党しました。オンは再びマレー人の利益を追求した「国家党」を設立しましたが、その後の地方自治体での選挙でもUMNOとMCAの連合体制が支持を得られていきました。

 1954年にはマラヤインド人会議(MIC)が創設され、UMNOとMCAの連合に参加。協力体制の名称は連盟党となり、現在の国民戦線(BN)の前身となります。

 戦後から1950年代に政党はすでに民族別に分かれて創設されました。その皮切りがUMNOだったと言っていいでしょう。その後にMCAやMICといった政党もでき、各民族の利益を追求した政党が出てきます。

 オンがIMPという民族に隔たりない党員の拡大を目指したのは失敗に終わりましたが、現在ある政党のなかで人民正義党(PKR)がどの民族出身であろうとも党員になれる仕組みになっており、理念としてはオンが実現したかった政党になっているのではないでしょうか。

独立後の動き
 1952年のクアラルンプール市議会選挙でUMNOとMCAとの選挙協力で圧勝し、UMNOは独立へ向けて動きます。

 オンの後を継いだトゥンク・アブドル・ラーマン総裁はMICとも協力し、英国政府と独立に向けた交渉を開始。数年の交渉を得て独立を勝ち取っていきますが、このときに平和裏に独立につなげたことは評価されています。
 1957年の独立後の1959年に初のマラヤ連邦では3党協力の「連盟党」で104議席中74議席を獲得。以後のこの他党と協力した上で政権を握っていく体制が続きます。

 1963年にはマラヤ連邦からシンガポール、サバ州、サラワク州が加わったマレーシア連邦に衣替え。このときのシンガポール州議会選挙に進出したUMNOは、時のリークアンユー州首相を攻撃。しかし、州首相側が勝利し、その後シンガポールとの関係も悪化して1965年にシンガポールは連邦から離脱することになります。

 1969年の下院総選挙では野党側が躍進し、クランタン州やペラ州、ペナン州では野党が州政権を掌握。危機感を覚えたマレー人と華人との間で衝突し、200人以上がクアラルンプールで死亡しました。このため、議会停止と憲法停止の非常事態が宣言されました。その責任者として首相でもあったUMNOのラーマン総裁はその後に辞任。ラザク総裁が引き継ぎ、UMNOと他党との融和策を作り出していきます。

 ラザク総裁が1976年に急逝し、これを引き継いでフセイン・オン氏が第3代目の総裁になります。創設者の子どもがUMNO総裁についたわけですが、父親のこともあったからかあまり功績は残しませんでした。しかし、ラーマン初代総裁と対立していたマハティール氏を次期総裁にしたことは大きな功績といっていいでしょう。

 1981年にUMNO総裁についたマハティール氏は2003年までUMNO総裁兼首相を続けました。この間にマハティール総裁に対して批判的な勢力が出ます。それまで総裁選はUMNOの歴史のなかでほぼ無風でしたが、1987年の総裁選は2つに勢力が割れる事態となりました。マハティール総裁に挑んだのはトゥンク・ラザレイ・ハムザ氏。激戦のうえ、わずか43票差で同総裁は勝ちましたが、その後大きなしこりを党内に残しました。ただ、同氏自身はマハティール総裁と和解しています。

 もう一つのゴタゴタはアンワル・イブラヒム副総裁兼副首相が1998年9月に突然解任されたことです。同副総裁は汚職と同性愛容疑でその後逮捕されました。これは非常に大きな社会的な不安を引き起こし、その後、アンワル氏は妻とともに人民正義党(PKR)の前身を作り、以後大きな政府の抵抗勢力となっていきました。野党勢力が大きくなったことで、UMNO内にも大きな影響を与え、現在に至っています。

 UMNOにとってさらに深刻な問題になったのは、政府系ファンド1MDBの問題でしょう。2009年に総裁となったナジブ氏が長年にわたって資金を不正に流用していた事実が2015年あたりから情報がリーク。2018年の総選挙ではこれに嫌気を刺した国民が「ノー」を突きつけ、UMNOは歴史上初めて下野しました。ナジブ氏は総裁を辞任し、その後逮捕に至ります。 

 現在のアフマド・ザヒド総裁は長年の政敵であった全マレーシア・イスラム党(PAS)と政治協力するため、2020年に協定を結びます。政治連合「国民合意」を創設し、イスラム色の強い協定となりました。ただ、実際どういう活動をしているのかは実態がよくわかりません。

 2020年にマハティール政権が崩壊すると、UMNOは率先して他党と組んで政権を掌握しました。その結果、統一党のムヒディン氏を首相にしましたが、2021年にUMNOの多くが造反し、同氏の政権は崩壊。その後、UMNOのイスマイル・サブリ副総裁が首相につきました。ザヒド総裁はナジブ氏の下で長年、UMNO副総裁や内相、副首相を歴任していましたが、汚職容疑で逮捕もされています。そのため、国民のイメージはあまりよくなく、このときは首相就任を固辞したようです。そこで新型コロナ関連対策で毎日のように記者会見をしていたイスマイル副総裁に白羽の矢が立ち、就任しました。就任早々、野党と提携を結んで安定して運営してきました。

 そして、今年9月ぐらいから解散総選挙の声がUMNO内で高まり、11月19日に投開票となりますが、さて、UMNOが再び政権を取れるのかが注目されています。

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