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マレーシア人はどこにいるのか

    「マレーシア人」という言い方がここ近年、国内でも使われ始めています。日本人にとって「マレーシア=マレーシア人」という概念が頭にこびりついていますが、長年マレーシアにいるとこの概念はピンときません。ただ、まだ違和感がある概念といってもいいでしょう。今回は「マレーシア人のアイデンティティー」の変遷を歴史的な観点からみます。

多民族社会は多様なアイデンティティーのるつぼ
 マレーシアはマレー人と少数民族を含むブミプトラが69.6%、華人22.6%、インド人6.8%、その他1%(2020年推定)からなる多民族社会です。このほかにも合法不法も含め、インドネシア人やフィリピン人、ビルマ人、バングラデッシュ人など100カ国以上からの出稼ぎ労働者が多数います。

 東南アジア諸国では、華人も含めて少数民族に対して同化政策を適用して国造りに励んできました。その典型はインドネシアやタイで、華人は華人名を使用せず、名前だけでは一見華人やその他少数民族とはわかりません。

 しかし、マレーシアの場合、華人やインド人の人口比率が極めて大きく、同化政策を適用することはできません。独立以前から三大民族が個々の民族共同体を維持し、独立後は政治的に協力することで国造りに専念してきたのです。

 第二次世界大戦前からマレー半島の華人やインド人はそれぞれ本国の中国やインドの政治に大きな関心を払っていました。戦後の1946年に「統一マレー人国民組織(UMNO)」が創設されてから、華人を代表する政治団体として「マラヤ華人協会(MCA)」や「マラヤ・インド人会議(MIC)」ができ、マレー半島内での民族別の政治活動が徐々に始まりました。マレー人、華人、インド人とそれぞれ言葉も文化もまったく違う人たちをどう一つにまとめて国民のアイデンティティーを創りあげていくかということは独立前後から大きな課題となっていたのです。

強固な民族別アイデンティティーのなかでの独立
 そもそもUMNOが創設されたのは、マレー人のアイデンティティーを守るために作られた政党でした。1946年に英国がマラヤ連合を一方的に創設。これは英領マラヤとペナンやマラッカの海峡植民地による連合で、この連合下ではスルタンの権限縮小や華人とインド人らに民族に隔たりなく市民権を与えるとの措置が取られました。移民らと平等に扱われることにマレー人たちは猛反発した結果、ジョホール王国(当時)のダトー・オンがUMNOを創設し、それまで各王国のでばらばらだったアイデンティティー(例えば、クダ王国マレー人。日本的にいえば、薩摩人が日本人意識になっていくようなものです)をマレー半島のマレー人を一つにして団結し、2年後にマラヤ連合を廃止に追い込んだのです。

 しかし、すでに多くの華人やインド人が半島内に定住しているのを鑑み、ダトー・オンはUMNOをマレー人のみでなく、他の民族にもUMNOの党員加入の門戸を1950年頃から開こうとしました。しかし、UMNOの主要幹部らはこれに猛反発。彼は翌年、総裁を辞任してマラヤ独立党(IMP)を立ち上げ、マレー人だけでなく、多民族の党員からなる政党を目指したのです。

 ダトー・オンのこの試みは失敗に終わります。1952年に行われたマラヤ史上初のクアラルンプール市議会選挙では、IMPも候補者を立てましたが、UMNOとMCAの連合勢力に完敗。「マラヤ人」という意識の確立を目指したようでしたが、うまくいきませんでした。UMNOとMCA(のちにマラヤ・インド人会議(MIC))が連盟党という連立政党を作り、民族別の政党が連合して一大政治勢力となることが定着していきました。このため、1957年のマラヤ連邦の独立後も「マラヤ人」の意識の創出にはつながりませんでした。

マレーシア人意識の創出の失敗
 1963年にサバ州とサラワク州、シンガポールを含めたマレーシア連邦が結成されました。マラヤ連邦下では三大民族が主な構成民族でしたが、上記三地域が組み込まれ、イバン族やカダザン族など少数民族が増えたことで、マレーシアはさらに多くの民族を抱える多民族国家となりました。

 結成後まもなくして、マレーシア中央政府とシンガポール州の考え方の相違が表面化し、経済的対立から政治的対立に発展。中央政府のマレー人を中心とした政治運営に真っ向から反対したリー・クアンユー同州首相は全民族が対等な「マレーシア人のマレーシア」という国家理念を主張。上記両州の政治指導者らと運動を展開しましたが、シンガポールでは民族暴動にまで発展。暴動拡大を危惧に加え、さまざまなことで対立していたため、中央政府はシンガポールを1965年8月に連邦から追放。リー同州首相が唱えた「マレーシア人」の概念は受け入れられず、各民族のアイデンティティーが強いまま1969年を迎えます。

 1969年5月13日はマレーシアの歴史のなかで重要な日です。これは下院総選挙直後にマレー人と華人の人種暴動が起こり、100人以上が死亡した事件のためです。ちなみに、2018年の総選挙後に野党が政権を獲得したときに与野党の政治指導者らが最も恐れたのは人種暴動の再来だったのですが、その時は何も発生しませんでした。「国民」が成熟したためだったのでしょう。

 この人種暴動をきっかけに「マレーシア人」の創出はさらに難しくなっていきます。政府は1970年に新経済政策(いわゆるブミプトラ優遇政策)を実施。ブミプトラ(マレー人と少数民族)への偏った優遇措置を講じたため、華人やインド人の間では不公平感が広がり、より各民族のアイデンティティーが強くなったことも否めませんでした。

 1990年代のマハティール政権は、1991年に「ビジョン2020」という2020年までに先進国入りを果たす国家長期計画を示しました。ここでは、先進国の実現項目の一つに、「運命を共有する統一された『マレーシア民族』のもとで、国家に対して忠誠と献身的な態度を示す国民の創出実現が必要」と説いています。「マレーシア民族」または「マレーシア人」の意識がこの時点でも確立していないとの認識を示した証左でもあります。

マレーシア人意識の覚醒と政権交代
 イブラヒム・アンワル氏が1998年に副首相を解任され、妻のワン・アジザ氏が人民公正党(PKN)を立ち上げ、どの民族も党員になれるものにしました。民主行動党(DAP)も同様のコンセプトをもっていましたが、華人系政党のイメージが強く、マレー人があまり寄り付かない状況でした。PKNの創設はマレー人主体の政党でありながら、多民族に開かれた政党で、これが起点となって「マレーシア人のマレーシア」の国造りを目指していったのです。

 PKNはその後、人民正義党(PKR)に衣替えし、DAPや汎マレーシア・イスラーム党(PAS)などとも連立しながら、与党に対抗してきましたが、2008年の総選挙前後から力をつけていくようになりました。つまり、PKRなどによる大規模な抗議デモなどを通じて、過去10年あまりにわたり、「マレーシア人」の意識が徐々に人々の間で浸透していくようになったといっていいでしょう。

 その頂点になったのが2018年の下院総選挙による政権交代だったのだと思います。これはときの腐敗夫婦であるナジブ一家に対する拒絶反応だったと同時に、民族政党別による政治が展開されたことや各与党政党に対する大きな不信感が頂点になり、政権交代を引き起こしたのでした。 

 あの歓喜に湧いた政権交代からもうすぐで3年。当時の政権は崩壊しましたが、それでも「マレーシア人」という概念は後退はしていないように思えますが、マレー人の多いクランタン州やトレンガヌ州などの地方ではまだ浸透はしていないようです。彼らにとっては、日本人という概念を越える「東アジア人」というアイデンティティーをもつのと同様で、しっくりとこない概念なのでしょう。「東アジア共同体」がいつまで経っても進展しない状況と似ているのではないでしょうか。

 いずれにしても、「マレーシア人」という認識が着実に芽生えていることは確実で、これは世代が変わっていくとアイデンティティーも変わっていくことを期待したほうがいいかもしれません。となると、彼らが真から「マレーシア人」という意識になるのは1世代先になるのかもしれません。


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