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マレーシア連邦結成記念日とは

 9月16日はマレーシア結成記念日で、今年は60周年記念でした。ただ、日本人の間でこの「マレーシア連邦結成」という意味がわからない人が多いと思います。マレーシアの国の成り立ちは少々複雑で、今回はこのマレーシア連邦結成についてお話します。


■独立したマラヤ連邦とは

 みなさんはご存知かもしれませんが、8月31日は「独立記念日」です。英国から1957年に独立しましたが、ここで注意してもらいたいのは「マレーシア連邦独立記念日」ではないということです。どういうことでしょうか。

 1957年に独立したのはマレー半島の11州。シンガポールは入っていません。第二次世界大戦後にマレー人の間でナショナリズムが高まり、12年をかけて独立を達成しました。戦後は自治州ともなり、独立の模擬試験のような形で一部で選挙も行われて徐々に独立機運が高まっていったのです。特の自治州首相であったラーマン氏(初代首相)は英国と2年以上にわたって交渉して最終的に独立を獲得。9州のスルタン(ペナンとマラッカはいない)とも合意を取り付けて1957年8月31日に独立しました。

 このときの国名がマラヤ連邦です。もともと英国はマレー半島の英国植民地を「British Malaya」と呼んでいました。1948年には英国植民地下の「マラヤ連邦」が形成されましたが、国名もそのまま使われることに。
 
 しかし、統一マレー国民戦線(UMNO)は「マレーシア」と「ランカスカ」(クランタン州あたりにあった古代の王国名)の2つを国名として英国に提案していましたが、これは却下されています。このため、やむなく「マラヤ連邦」を採用したことになったのです。

 このため、現在も「マレーシア連邦独立記念日」とはいわず、単に「独立記念日」と呼ばれるのです。

■マレーシア連邦結成とは

 さて、「マレーシア」ですが、由来などについてはこちら(すみませんが、かなり調べたので有料です)。

 詳細は上記に譲るとして、マラヤ連邦政府幹部らは1957年以降から領土を拡大することを考えていました。これは領土的野心ではなく、マレー半島でマレー人の人口が華人を将来下回ってしまうのではないかと政府が懸念したことからのようで、当時は共産主義が吹き荒れていたことから、華人によって共産化されてしまうとの危機感も働いたようです。

 1957年のマラヤ連邦の人口は約628万人。このうち半数にあたる312万人がマレー人でした。一方、華人は233万人で20世紀初頭と比べて4倍増えています。戦前には東海岸沿いの町でも多くの華人がみられ、華人が将来人口が増えて政治的にもコントロールされてしまうとの危惧もありました。

 こういった中で、ラーマン初代首相は1961年にシンガポールを訪問中に突然、「マレーシア連邦構想」を表明。なんの前触れもなく発表されたため、大変驚きをもって受け止められました。

 この人口対策のためにマレーシア連邦の領土にしてしまおうと考えられて対象となったのが現在のサバ州とサラワク州です。

 サバ州は英国の保護領で「北ボルネオ勅許会社」が長年支配していました。同州の歴史はかなり複雑で、今でもフィリピンが領土主張をしている土地でもありますが、ここでは詳細を割愛します。

 サラワク州はジェームズ・ブルックという英国人が白人王として君臨し「ブルック王国」が100年ほど続きました。第二次世界大戦後は英国の自治州となりましたが、サバ州も含めこのあたりは将来的には独立させようと英国は考えていたようです。

 両州は少数民族が非常に多いところとして有名です。サラワク州だけで40以上の少数民族がおり、宗教もさまざま。サバ州もそうですが、少数民族がひしめき合っているため、政治的に非常に不安定化しやすい場所でもあります。

 そして、マラヤ連邦がこの両州を領土に組み込み、1963年9月16日にマラヤ連邦、サバ州、サラワク州、シンガポールがいっしょになって、新たに「マレーシア連邦」ができたのです。一方的な領土組み込みではありません。「併合」と書いている記事をときおり見かけますが、両州では国連による住民投票や名士へのインタビューやコンセンサスを取っており、少なくとも「併合」は言い過ぎだと思います。ちなみに、シンガポールは2年後に政治的な対立が深刻化して追放されました。シンガポールの人口の大半は華人が主ですが、ここが加盟した理由は経済的な理由からでした。このあたりはまた改めていつか書きます。

 簡単にまとめると、独立したマラヤ連邦にサバとサラワクが加わってできた連邦国ということになります。この結成を記念した日がマレーシア連邦結成記念日となります。

■なぜ9月16日が結成記念日なのか

 さて、かなり簡略化して歴史を上記で書きましたが、ここで結成記念日がなぜ9月16日になったのかを考えます。

 もともとマラヤ連邦政府は独立記念日の8月31日にマレーシア連邦結成記念日としたかったのです。独立記念日といっしょにすれば、名実ともにマレー半島も東マレーシアも「独立」となったのですが、しかし、ここでインドネシアからの介入が入りました。

 ラーマン首相は独立当初から隣国の大国インドネシアに対して非常に気を使っていました。特にカリスマ指導者のスカルノ大統領にかなり配慮していました。あの広い領土(ヨーロッパとほぼ同じ面積です)を武力をもって独立を勝ち取ったというのは、やはり大きな功績です。個人的にはそんなに良好な関係ではなかったようですが、表向きはマレー人つながりで国家間の関係でマラヤ連邦政府は良好な関係を保っていました。

 1961年にラーマン首相がマレーシア連邦構想を表明した際もスカルノ大統領は好意的に受け止めていたようです。

 1962年にシンガポールは住民投票でマレーシアへの参加を決定。ところが、加盟参加を求められていたブルネイでは参加に反対する勢力が武力で反乱を起こしました。結果的に反乱は失敗しましたが、ブルネイはこれにより参加を見送ります。このときに非常事態宣言がブルネイで発令されましたが、これは1962年から今もって効力を発しています。

 サバとサラワクでは英国と地元有力者による委員会が設置され、自治権のもとでマレーシア連邦への加盟が合意。加盟賛成派の政党が結成されて選挙でも勝利し、「マレーシア協定」が調印されました。

 これらの一連の流れをスカルノ大統領は見て、突如として「英国の新植民地主義」と反対を表明。「マレーシア粉砕」を唱え始めたのです。フィリピンもサバが領土に入ることを嫌ってインドネシアと歩調を合わせます。

 これはマラヤ連邦政府幹部を大慌てさせました。1963年7月から8月にかけてマラヤ連邦、フィリピン、インドネシアの3か国は紛争枠組みの解決として「マフィリンド」を結成。ここでは国連による住民調査により、3カ国が納得の行く形で連邦結成に踏み切ろうとラーマン首相は考えていました。

 8月に国連から調査団が来て、サバとサラワクで調査を開始。両地域とも「マレーシア連邦への参加を住民は望んでいる」との調査結果が出ましたが、スカルノ大統領はこれに納得しません。それどころか攻撃の度合いを強めていき、収拾がつかない状態となり始めました。

 ラーマン首相らは手詰まり状態に陥り、希望としていた8月31日は過ぎてしまいました。スカルノ大統領らを説得するにも「連邦反対」を声高に訴えるだけで、どうしようもない状態に。ここでラーマン首相は反対の声が叫ばれるなか、「マレーシア連邦結成」を宣言してしまいます。それが8月31日から2週間後の9月16日。2週間待ってもどうしようもなければ結成に踏み切る覚悟をして宣言に踏み切ったのです。

■結成したものの

 マレーシア連邦は結成されましたが、隣国からは四面楚歌となりました。かろうじてタイとは関係は続きますが、フィリピンとインドネシアは国交断絶を通達されたのです。

 スカルノ大統領は結成前からサラワク州にインドネシア軍を侵入させ、警察署が攻撃されるなどしています。当時、マレーシアの軍事能力はそんなに高くなく、結局英国を中心にほぼ全面的に防衛するということになり、1965年まで軍事的な対立が続いたのです。シンガポールでも1964年に暴動事件が発生しています。これもインドネシアによる画策だったとみられています。

 1965年9月にスカルノ大統領は失脚。これに伴い、マレーシアへの攻撃は終わりました。しかし、大統領は変わったものの、1回振り上げた拳を下げるには国家としてのメンツがありません。そのため、両国を改善するため、マレーシアは相当な労力を払いました。その結果、1966年8月になって初めて国交再開となりました。1967年になって両国で互いに連絡事務所を設置し、その後に大使館に引き上げていますが、要は紛争終了まで結成から実に4年の歳月がかかったのです。

 この紛争は東南アジア地域で大きな教訓となりました。この結果、東南アジア諸国連合(ASEAN)が1967年にできるきっかけともなりました。逆にこの紛争が深刻化しなければ、ASEAN創設ももしかするとなかったかもしれません。そういう意味でもマレーシア連邦結成というのは非常に意味の深い出来事だったのです。


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