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2歳児に陳情して敗北したけど関わり方が見えたって話

どうも、エトウです。

私は現在8歳(小2)と5歳(年中)の男の子を育てているお母さんで、今でこそ毎日笑って過ごせていますが、長男が2歳の頃は毎日怒っていた。

2人を育てた感覚で〝子育て難易度〟を計測すると、長男はエクストラハード、次男はイージー。

これくらい差を感じるほど、長男の子育ては毎日が戦いで、私自身の傷をえぐるものでした。

長男はとにかく食べない子で、2歳頃は次男を妊娠中ということもあって、ほとんど食べていませんでした。

そんなある日、私は長男に「食べなさい」と陳情しました。

お願いではなく、陳情です。

当時は大真面目に陳情する毎日でしたが、ある日長男の「イヤ!」「いらない!」「食べない!」はどういう意味なんだろうか?と考えるきっかけが訪れます。

考えてみて見えてきたのが、「キミは嫌いな食べ物を食べなければならない合理性をボクに説明できるのかい?」と2歳児は私に問うているのだということでした。

今回は、当時を振り返りながら食べない2歳児に陳情して敗北したけど関わり方が見えたって話をしていきます。

ちん‐じょう ‥ジャウ【陳情】

〘名〙
① 上位の者の好意を期待して、心情を述べたり、事の次第を訴えたりすること。〔布令必用新撰字引(1869)〕
※帰郷(1948)〈大仏次郎〉無名氏「軍の主計も末端の奴になると、華僑の陳情も聞いてくれぬらしい」 〔楚辞‐九章・思美人〕
② 中央や地方の公的機関に、実情を訴えて一定の施策を要請すること。「陳情団」
※ノリソダ騒動記(1952‐53)〈杉浦明平〉三「農民の代表として陳情に行かれたのであるか」

コトバンク

27歳が2歳児に陳情するまでの流れ

食べない長男と私の戦いが勃発

子育て経験者なら「魔の2歳児」という言葉を聞いたこともあるでしょう。

子ども自身が何かをしていても、親が何かをしても、突然始まる「イヤ!」は日に日にひどくなっていき、親の精神をごりごり削っていく。

長男は「イヤ!」と言ってとにかく食べない子だった。

離乳食のときから食べなかったわけじゃない。むしろ、好き嫌いすることなく何でも食べる子だった。

なのに、突然食べなくなった。

やわらかくしようが、大人と同じ味付けにしようが、見た目を工夫しようが、何をしても食べない。

パンとジュースと10時と15時のおやつで生きていた長男はそれで満足な様子だったけれども、なんせ一人目の子育てというのは心に余裕がない。

「バランス良くちゃんと食べさせないと!」

こういった完璧な思考がまだべったりと脳みそに張り付いていた時期だった私は、食べない長男をだんだん許せなくなった。

「食べてよ!」と長男に陳情する

「あなたが食べない事実が気に入らないから食べてください」

今でこそ「食べないのには理由がある」とわかる。

食感や味付け、においなど、大人でもいろんな理由から苦手な食べ物のひとつやふたつあるものだけれど、当時の私は頭でそのことを理解できていても、心が受け付けられなかった。

作った料理をお皿に盛り付け、ぐちゃぐちゃにされるだけされて、後はゴミ箱行き。

1回や2回じゃない、1日最低3回、それを何日も、何週間も繰り返すのがしんどかった。

どんどんと心の余裕がなくなっていき、私には「長男は私が作ったごはんを食べなかった」という結果しか見えなくなった。

「食べてよ!」

大人げなく、2歳児相手に声を荒げる毎日。

これは長男にどうやったら食べられるか質問したり、「こうしてみたらどう?」と提案したりしているんじゃない。

「私が作った料理を、あなたが食べない事実が気に入らないから食べてください」と陳情しているんだ。

しかし相手はまだ2歳。無理なものは無理。嫌なものはイヤ。子どもってそういうもんでしょう。

長男も負けじと「イヤ!」「いらない!」と抵抗する。

こんな毎日、全然楽しくない。私も、きっと長男も楽しくないし、ご飯の時間が嫌いになる。

長男をキッチンに連れて行き、目の前で料理をゴミ箱に捨てたことや、ストックしてあるおやつを捨てたこともあった。

私のこの行動は、何も良いことなんかない。次につながらないことだったけれど、自分を抑えられなかった。

だけどもこの怒りは、ある出来事をきっかけに考え方を変えることができるようになった。

私が長男と同じ扱いを受けたらどう感じるだろうか

子供の気持ちを考えてみる

ある寒い日の朝に、保育園への登園時間が迫る中、長男は上着を着るのを嫌がった。

泣いて嫌がる長男に無理やり上着を着せ、自転車の後ろに縛り付けるように乗せて保育園に向かった。

私は学校に行けない時期があったのだけれども、その日は泣いて上着を着たがらない長男が昔の私と重なった。

どうして長男は上着を着たくなかったんだろうか?
もしかすると、保育園に行きたくなかったんじゃないだろうか?

もし、長男のイヤ!は、「嫌だからしない」ではなく「できない」だったら、それは仕方がないことなんじゃないか?

2歳なんて、まだ自分で自分の気持ちを誰かに伝えることができないし、どうして私が怒ってるか、相手の気持ちを考えるのはむずかしいだろう。

私はこれまで長男のことを考えずに、自分の気持ちばかりを長男にぶつけてきたんだ。

もし私が、誰かにそういう扱いを受けたらどう思うだろ?

そう感じた日から、私は長男が今何を感じているか想像してみることにした。

2歳児に合理性を問われて、説明できなかった

2歳児に負けた

言葉だけで説明されてもなかなか理解しにくいけれど、図やイラストを交えてもらえれば理解しやすいというのは、大人の世界でもあること。

長男も同じだった。

長男とゆっくり話をする。

話だけではむずかしいようなら、画用紙に絵を描いてゆっくりと説明する。

だいたいが上手くいかないけれど、たまに「わかった」と納得して理解してくれることもあった。

長男とちゃんと話をするようになって気付いたのは、長男は自分が納得できないことをなぜしなければならないのか理解できないところがあったということだ。

「なぜ嫌いな食べ物を食べないといけないのかわからない。ボクはそこに合理性を感じませんよ」

そう長男は言っているんだ。

「ぐぅ…、そうだよねぇ…」

2歳児に大人と同じように、理屈は通じない。

だから「3歳になったら子育てが楽になる」なんて言われることがある。(実際は3歳になってもしんどかったけどね)

まだ長男は、どうしてその料理が食べられないのかを上手に説明できない。「イヤ」「きらい」「いらない」と自分が知る限りの言葉で私に訴えて、出された料理をぐちゃぐちゃにすることで「食べられません」と私に伝えている。

この行動や言葉を、文章として書き上げてみると先ほどの通りなんだと思う。

長男は私に〝嫌な食べ物を食べなければならない合理性〟を問うているのに対して、私は長男が納得できて、さらに理解できる説明ができなかった。

完全に私の敗北。

負けてしまったんだ、ここはスマートに引くべきだろう。

それから私は、育児をしていくなかで長男と私との間で意見が合わなければ長男と交渉し、長男に提案し、ときにはお互いで妥協点を見つけることにした。

例えば、「食べない!」と言われたら、「じゃぁ、トマト1個食べたら他は残して良いよ」というように、出されたプチトマト(なお半分にカット済み)を食べるか・食べないかの戦いに発展しないようにした。

長男も「なんだ1個か、だったら頑張れそうだな」と、比較的納得してくれるようになった。

子どもは大人と同じ〝人〟

子どもと大人は大きく変わらない

当たり前なんだけれど、子どもも大人と同じ1人の〝人〟。

だけど、特に親子ではそのことを忘れてしまうことがある。

腹が立って仕方がなくて、「こうしなさい!」「どうしてしないの!」と責め立てるように子どもに強制してしまう。

少なくとも、私にはそういうところがあったし、今もあると思う。

私が作った料理を食べる・食べないの戦いで気づけたことは、子どもは年齢に応じて、理解できること・できないことに差があって、むずかしい言葉を理解できない時期もあるけれど、それ以外は大人と大きくは変わらないということ。

子どもが分かるように工夫しながら説明すれば、子どもは理解して納得してくれるときもある。

だけど、お互いに気持ちよく納得できる日々ではないのが子育てというものなんだと思う。

そのときは、大人同士の関わり方と同じように、お互いに話し合い、交渉し、提案し、お互いに妥協点を見つけて〝落とし所〟とすることも大切。

現在長男は8歳、小学2年生。

年相応になかなか小生意気になってきたけれども、関わり方は2歳のときと変わっていない。

子どもは、子どもなりに大人が言うことに疑問を感じることがある。

そこで子どもが納得できるように大人が説明できなければ、当然衝突することになる。

私は家族と楽しく過ごしたい。

だから、なるべく家族間で衝突する機会は減らしたい。

そのために、お互いにどうすればいいのかを考えられるようになれれば、子育てにおける親と子どもの争いは減る。…かもしれない。


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今後の記事作成に役立てたいと思うのでサポートいただければ幸いです