〝もしも〟の備えは私と家族を守ることにつながるって話
どうも、エトウです。
昨今多発する自然災害の多さに、ご家庭でも〝もしも〟に備えるようになった方が多いと思う。
しかし〝もしも〟は自然災害だけじゃない。
自分が病気やケガをしたら
突然死んでしまったら
家族に〝もしも〟が起きたら
正直な話、10代・20代前半の頃は〝もしも〟なんて起こらないと信じて疑わなかった。
大きな災害が起こっても、どこか自分とは関係のない遠いところでな話で、なぜだか「自分は大丈夫」という自信があった。
でもある日、その考えが甘くて浅い考えなのかと直面する出来事が起こった。
それから、私は〝もしも〟に備えるようになった。
今回は〝もしも〟の備えは私と家族を守ることにつながるって話を、経験と実践していることを交えながら喋っていきます。
〝もしも〟の備えが大切だと思った3つのできごと
1.父の事故
私が高校生の時、父がフォークリフトに轢かれた。
私は単位制高校に通っていて、朝はいつものんびりと起き、単位を取るために1日2〜3限の授業を受けていた。
そのためその日の朝はめずらしく早起きをしていて、母と一緒に出勤する父を見送った。
「行ってらっしゃい」
父は長年勤めた会社が倒産し、しばらく事務仕事に追われたのち、ようやく再就職できたのがこの会社だった。
研修期間中で、いまは現場で細々とした仕事をしているけれど、もう少しで希望の営業職に就けるという時期。
その日の昼過ぎ、私の携帯が鳴った。父からだ。
「お母さんはおらんか?」
季節はだいぶ涼しくなってきた頃なのに、まるで猛暑にあえぐように父が声を絞り出した。
「ごめん、今病院やから家におらんねん」
私は通院先の病院で診察を終えて、薬局で薬待ちだった。
「そうか、ほなええわ」
父は急ぐようにそう言って、電話を切った。
(なんやねん)
そう思ったけれど、なんとなく気になったので母に電話した。…電話に出ない。
母は夕方から翌朝まで仕事を2つ掛け持ちしていたので、この時間はいつもなら寝ている時間。
「早く帰ろう」
早く帰れば、母が出勤する前に父から電話があったと伝えられるかも。
そう思って、特急電車で1駅の地元まで急いで戻った。
…が、しかし、家に帰ると母が居ない。出勤にはまだ少し時間が早い。電話をかけるも出ない。
(?)
私は少し不思議に思ったくらいで、それ以上何も思わなかったけれど、このとき父は仕事中にフォークリフトに轢かれて救急搬送されていて、母は病院にいた。
父は、安全靴を履いていなかった。
その後、父は半年ほど入院し、最終的には右足の親指が壊死したため切断。右足つちふまずの皮膚もお腹の皮膚を移植した。
労災が適応され、生命保険もおりたが、その後父は障害者雇用で働くようになり、収入そのものが大きく減ることになった。
また、高齢の障害者を正社員として受け入れる会社は少ない。
契約社員としてさまざまな会社を転々とし、さまざまな理由をつけられ解雇されて、再び契約社員として勤める。
こうした不安定な地盤で、そして理不尽な理由で、大きな負担を背負うことになった。
2.大阪北部地震
父の事故からしばらくして、私は結婚して男の子2人に恵まれた。
2018年6月18日午前7時58分、経験したこともない大きな地震が起きた。
その日は次男を出産して、退院してからまだ5日目のこと。
長男と夫は7時に家を出て、保育園と職場にそれぞれ向かっていたので、家には私と新生児の次男だけだった。
スマホとテレビから、けたたましい警告音。
それと同時に、下から突き上げるような大きな衝撃と、間髪入れずに大きな横揺れ。
家事をする手をすぐに止めて、リビングで眠る次男を抱き上げて玄関まで走った。
揺れが長い、開けていた窓がバタンバタンと遊ぶように開いたり、閉まったりを繰り返す。
棚の上のものは無造作に落ちたが、揺れによる轟音が大きくて、実際にものが落ちているのに気付いたのは揺れがおさまってからだった。
幸い停電はしなかったので、揺れがおさまったと同時にリビングに戻りテレビを見た。
枚方市 震度6弱
次男を抱える腕が、ガクガクと震える。
「どうしよう、どうしよう」
悩むな、動け。守れ。
次男を安全な場所に寝かせて、すぐに次の揺れに備えて荷造りをした。
オムツ、キューブ状のミルク、哺乳瓶、水、着替え、貴重品、思いつくものをリュックに詰め込む。
電話が通じないから、メールとSNSで夫と保育園とやりとりし、2人が帰ってきたのは昼過ぎだった。
大渋滞の中、夫は知りうる抜け道を縫うようにして車を走らせ、社用車で保育園に直接向かったそうだ。
無事に夫と長男が帰ってきてくれて、とてもホッとした。
私が住んでいた地域は大きな被害はなかったけれど、水道管内のサビが混ざった水しか出なくなり、たまたまストックしていた水でやり過ごした。
3.台風21号
大阪北部地震があった年の9月4日、台風21号が直撃した。
空港につながる連絡橋にタンカーが突っ込んだニュースは全国に放送され、台風の猛威を知らしめた。
幸い私が住む地域では、数時間停電した程度の被害だった。
朝の番組で「とんでもなく大きな台風が来る」「スマホはフル充電しておいてください!」と、アナウンサーが繰り返し伝える。
迎えに行けないと困るので、長男は保育園を休ませて、朝からそのときまで家で過ごしていた。
ゴー、ゴー、とどんどん風が強くなり、しまいには雨風が窓に叩きつける。
バン、バン、バンと凄まじい音が外からなのか、窓からなのかする。
すると、突然真っ暗になった。停電だ。
「ママ、こわい」
3歳の長男が今にも泣きそうな声で抱きついてきた。
スマホの懐中電灯機能を使い、灯りを確保する。
ただ耐えるのも怖いだろうと、暗がりのなか絵本を読んだり、おもちゃで遊んで過ごした。
2時間ほどで停電が解消され、凄まじい音もおさまった。
外を見たら、あちこちの看板が吹き飛ばされ、電線は垂れ下がり、信号機は真っ暗になっていた。
もしあの時、窓ガラスが割れていたらどうなっていただろうか。想像するだけで怖い。
当たり前な日常は当たり前ではない
父の事故、地震、台風で、私は〝もしも〟の備えがどんなに大切なことかをようやく理解した。
「私は大丈夫」なんて絶対にない。
当たり前の日常のうちに、備えられるものは備えておくべきなんだ。
父の事故で学んだことは、お金や自分にしかわからないことを家族と共有できるよう備えておくことだった。
私は長男を出産した後に、「そういえば保険に入っていなかったな」と思い出し、ガン、医療、生命の3つの保険に入った。
私は持病があったし、入院歴もあったから保険には入れないって諦めていたけれど、ダメ元で保険の総合窓口に行って良かった。
この保険は入りっぱなしにせずに、1年に1回は見直しをしている。
次に、私にしかわからないことを家族に共有できる仕組みづくりだ。
「どうしたもんか」と悩んでいた時期に、たまたま遺品整理士の資格を取得したことで、エンディングノートの存在を知った。
パソコンで必要な情報を書き出して、印刷、そして100円ショップで買ってきたフォルダーに閉じる。
もちろんエンディングノートも、変更があれば加筆・修正している。
あとは、日常でできる備え。
ローリングストックと呼ばれる方法で、日常から飲料水やカップ麺、パックごはんなどを買っておき、消費して無くなりそうならまた買い足す。
こうすれば賞味期限切れによる廃棄を防げるし、どのくらい在庫があるか確認しやすい。
最後に懐中電灯や乾電池式の充電器、給水ボトルなど、ホームセンターや100円ショップで、備えられるものを備えた。
こちらも買ったらそのままにしておかずに、特に懐中電灯や充電器など機械類は、最低でも半年に1回は実際に動かして動作確認をする。保管の際は乾電池を抜いて保管すれば長持ちする。
食器棚のように背の高い棚は、市販の防災用突っ張り棒で固定。
もちろん棚の上にものは極力置かない。置いても重たくないものを置くようにする。
いっきにこれらの備えをするとなかなか大変なので、少しずつ、無理のない範囲で備えていくことがポイントだ。
出番がないことを願って〝もしも〟に備える
少し前まで、保険や防災対策は「もったいない」と実は思っていました。
ガン、医療、生命の3つの保険に入れば、毎月それなりにお金がかかる。
食品や防災用品を備えるのも費用がかかるし、使わなければもったいない。
だったら、日常から使っていけばいい。
保険はケガや病気のときに、働けなくなった時に経済的に備えてくれる他に、掛け捨てでなければ資産として運用することができる。子供の教育費や老後の資金にもなる。
食品はローリングストック、乾電池は家電製品やおもちゃに使うし、懐中電灯はキャンプに使う。
防災専用だと備えるのにハードルが高くなるけれど、日常でも使えるものなら手軽に備えられる気がする。
私が子供の頃と比べて、すごく災害が増えた。
大人になって大切な人が増えたことで、私1人だけがどうかなるわけじゃなくなった。
なんでもない、当たり前の日常のうちに、〝もしも〟に備えておけば少し安心できる。
出番がなければなくて、それはそれでいいじゃないか。
むしろ私は願うよ。
これだけ〝もしも〟に備えているけれど、どうか出番がありませんように。
今後の記事作成に役立てたいと思うのでサポートいただければ幸いです