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八百屋 お七

3月29日は、八百屋お七の日でした。

1683年3月29日。当時16歳だった八百屋の娘お七が、3日間の市中引き回しの上、火あぶりの刑に処せられました。

実は資料などがほとんどなく、お七がいつ、どこで生まれ育ったのか、なぜ放火をしたのか、どのような処刑が行われたのか、それどころか、お七の家が八百屋だったのかどうかすら、はっきりはわかっていないそうです。ただ、「お七と言う名の娘が放火をし、処刑された」ということだけが残っているんだそうです。

でも、お七のことは悲恋の物語として語り継がれてきました。最も有名なのは、井原西鶴の「好色五人女」の4巻「恋草からしげ八百屋物語」です。ざっくりとした内容はこんな感じです。

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16歳のお七は、年末、大火事で焼け出され、駒込のお寺に避難しました。そこで、寺小姓の吉三郎と出会い、恋に落ちます。二人は幸せな時間を過ごしますが、やがて、お七の自宅は新しく建て替えられ、お七は泣く泣く、新しい自宅に戻りました。

「もう、吉三郎さまと会えない・・。でも・・・・。会いたい・・・」

思い詰めたお七は、なんと自宅に火をつけました。

「もう一度、家が火事になれば、またあのお寺に逃げて・・・。そうしたら、吉三郎さまに会うことができる・・・」

強風で火が大きくなっていくのを見たお七は正気に戻り、自ら火の見櫓に登って鐘を叩きました。

火事はボヤ程度で済んだものの、当時、放火は重罪。お七は捕らえられました。当時、放火の罪は、15歳までなら島流し、16歳から死罪と決まっていました。奉行が、かわいそうな少女の命だけは助けてあげたいと、

「まだ、15歳であろう」

と問いました。でも、お七は正直に

「いえ、16歳です」

と答えました。お七は市中引き回しの上、火あぶりの刑となりました。

この時、吉三郎は病気で寝込んでいたので、お七の処刑を知らずにいました。お七が亡くなってから100日後、吉三郎はやっと起きられるようになり、事実を知ります。ショックを受けた吉三郎は、お七の後を追おうとしましたが、お七の最期の言葉が

「私を弔って欲しい」

だったと聞き、出家し、お七の霊を供養したそうです。

ちなみに、お七は丙午の産まれでした。このことから、丙午の女性は気性が激しく、夫の命を縮める・・・という迷信が産まれたそうです。

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