見出し画像

名古屋城の金シャチ

「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ♪」

伊勢音頭で歌われる名古屋城は、大阪城、熊本城と共に、日本三名城に数えられています。そんな名古屋城の屋根にいるのは、金のシャチホコ。現在、その金シャチが地上に降りて、栄で展示されています。

名古屋城は、徳川家康が、九男義直の居城として築城しました。以降、明治維新まで、徳川御三家の1つ、尾張徳川家17代の居城となりました。

実は昭和初期まで、天守や御殿などが現存していたのですが、第二次世界大戦の名古屋大空襲で大部分が焼失してしまいました。それまで名古屋城の屋根の上にいた、初代金シャチは、海外で展示されたこともありました。

明治維新で徳川の世が終わった後の明治3年。最後の城主となった徳川慶勝が「金シャチは無用の長物」として、新政府の資金として活用してもらうため、金シャチを皇室に献納することを申し出ました。そして翌年、金シャチは屋根から降ろされました。2匹の金シャチは木箱に入れられて東京に運ばれ、皇居で保管されました。

そのまま保管されていた金シャチでしたが、明治5年、日本初の博覧会で展示され、大人気となりました。この時、展示されていたのは、雄の金シャチ。その後、日本全国で毎年のように博覧会が開催されるようになり、雄の金シャチは愛知物産博覧会、金沢博覧会、さらに北陸、西日本各地を周り、大分博覧会でも展示されました。

一方、雌の金シャチはお留守番・・・ではなく、海を渡ってオーストリアのウィーンで開催された、ウィーン万国博覧会に出品されました。

その帰り、万博に出品した物を乗せた船が沈没するという事件を起きます。金シャチも海に沈んだ・・・という噂が流れましたが、実は香港で荷物の積み替えをした時、金シャチはそこに残されていて、奇跡的に難を逃れたんだそうです。後日、別の船で無事に日本に戻りました。

その後、名古屋で「金鯱復帰運動」が盛り上がり、明治11年、金シャチは名古屋に戻ることになりました。明治12年、雄雌そろって、金シャチは名古屋城の天守に戻りました。

そして、名古屋大空襲で焼失、現在の2代目金シャチが誕生しました。2代目金シャチは、昭和59年の名古屋城博覧会で地上に降ろされて展示、平成17年の新世紀・名古屋城博で地上に降ろされ、そのまま愛・地球博にも登場しました。

しばらく屋根の上に鎮座していましたが、今、16年ぶりに地上に降り、名古屋の真ん中、栄で展示されています。展示は7月11日まで、入場料は小学生以上が500円です。今回は、見るだけでなく、触ることができるということで、なかなかできない貴重な体験ができますね!

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?