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真田昌幸

真田信繁(幸村)の父。

昌幸は三男として産まれてきましたので、家督を継ぐ立場ではなく、7歳の時、人質として武田信玄の元に送られました。ただ、「人質」とは名ばかりで、信玄に気に入られた昌幸は、信玄に信頼される側近として大変重宝されました。

足軽大将として、足軽たちを束ねる立場となった昌幸。戦場で経験を積み、ますます信玄から信頼されるようになり、そんな中で、昌幸は信玄のそばで直接、戦の戦略や勢力などを学んでいきました。

のちに主君をどんどん変えていく昌幸ですが、武田家への忠誠は本物でした。信玄が亡くなると、家督を相続した武田勝頼に仕えます。同じ頃、昌幸の兄が2人とも、戦で亡くなりました。三男だったために、家督を継ぐことはないと人質に出された昌幸でしたが、突然、真田家の家督を継ぐこととなりました。

でも、勝頼の側近であることには変わりがないので、勝頼の元にいたり、真田家の地元である信濃に行ったり、せわしなく動き回ると同時に、沼田城や名胡桃城などを攻略して、領地を広げていきました。

昌幸は、家督を相続し、真田家を発展させながら、武田勝頼の側近としての役目もしっかりこなしていたんです。この頃、まだ20代。凄いですね。

やがて武田家は滅亡、主君を無くした昌幸は、織田家に迎え入れられ、織田信長の重臣、滝川 一益に仕えるようになりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こりました。主君を失った織田家家臣たちは逃走してしまいました。

またも主君を失った昌幸ですが、自由に動けるようになったということで、武田家から受け継いだ真田領を守るため、上杉についたり、北条についたり、徳川についたりと、主君をとっかえひっかえしていきます。その時々によって、立場の強い者を見極め、臨機応変に立場を変えていく立ち回りのうまさ、さらに、戦の腕前も確かで、兵士が倍以上の敵に勝つ・・という無類の強さを誇っていました。

その後、秀吉の天下になると、豊臣家の家臣となりました。

ただ、関ヶ原の戦いで、昌幸と次男の信繁(幸村)は三成方の西軍につきましたので、西軍が大敗すると、九度山に流されることになります。九度山での生活は苦しいことが多かったようです。そしてそのまま、九度山で65年の生涯に幕を降ろしました。

どんなに凄い人でも、1度負ければあっという間に転落。戦国の世は辛いですね。。

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