見出し画像

愛姫と五郎八姫

愛姫。「めごひめ」と読みます。伊達政宗の正室。政宗とは、又従兄弟に当たるそうです。政宗13歳、愛姫12歳の時に結婚しました。

その時、「政宗暗殺未遂事件」が起りました。この事件に、愛姫の実家からの内通者が関与していると疑った政宗は、なんと、愛姫の乳母、愛姫付きの侍女たちをすべて死罪にしてしまったため、夫婦仲は悪くなってしまいました。そのためか、2人の間には、長らく子どもが産まれませんでした。

その後、夫婦仲は修復していきましたが、愛姫は秀吉の人質として、京都の聚楽第にある伊達屋敷に住むこととなりました。その頃、野望を捨てきれない伊達政宗は、豊臣に従うか、逆らうか、日々、悩んでいました。そんな政宗に、愛姫は京都で起ることを逐一知らせ、外交官的な役割をしていたんだそうです。

そして、聚楽第に住むようになってから3年後。結婚してから数えると15年後。政宗と愛姫の間に、待望の赤ちゃんが誕生しました。名前は「五郎八姫」。「いろはひめ」と読みます。漢字を見ると、男の子のような名前です。この名付けについては、「男の子を熱望するあまり、男の子の名前しか考えていなかったのに、産まれたのが女の子だったので、そのまま付けた」という説や、「次こそ男の子が授かりますように・・という願いを込めて付けた」という説など、諸説あるようです。

家康は、有力大名と関係を深め、反乱などを起こさせないようにしようと考え、自分の子どもたちと有力大名の子どもたちをどんどん縁組みさせていました。五郎八姫は、5歳にして、家康の6男 忠輝と婚約、11歳で結婚をしました。政略結婚ではありましたが、忠輝と五郎八姫は、とても仲良く暮らしていたようです。ただ、幸せは長く続きませんでした。

忠輝は元々、家康から嫌われていたという説があり、家康の忠輝に対する風当たりは、かなり強かったことに加え、大坂夏の陣で、秀忠の家臣が自分を追い越したと言って無礼討ちにしたり、大切な場面で遅刻したりして、さらに家康の怒りを買ってしまいました。

その後、家康が亡くなるのですが、忠輝はついに最期まで面会を許されませんでした。そして家康が亡くなってから3ヶ月後。兄である2代将軍 秀忠から改易を命じられてしまいます。五郎八姫は離縁させられ、忠輝は現在の三重県伊勢市と鳥羽市の間にある「あさま山」に流されてしまいました。

五郎八姫は政宗がいる仙台に戻り、再婚することなく、仙台城にて68歳の幕を降ろしました。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?