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板部岡 江雪斎

2017年の大河ドラマ「真田丸」を観ています。

北条氏政の命令で、跡継ぎがいなかった板部岡家(北条氏の家臣)の養子となり、家督をつぎ、北条家に仕えていた、江雪斎。重要な文書を作成したり、外交僧としてさまざまな交渉をしたり、重要な役割を担っていました。また、寺社奉行として、病の祈願や戦勝祈願なども行っていました。

真田丸のドラマの中でも、いろいろな交渉をするシーン(ちょっと笑えるような交渉も)が出てきますが、史実でも、武田勝頼や上杉謙信との交渉のほか、織田信長と同盟を結んだ際にも江雪斎が使者として動いていたようです。

本能寺の変で信長が討たれ、秀吉がいよいよ天下統一へと動いていた時、秀吉と北条氏の対立が深まるのですが、その時にも江雪斎は関係修復に尽力して動き回りました。それを見た秀吉は江雪斎を気に入り、自らお茶を点てて与えたというエピソードがあるそうです。

小田原征伐で北条氏が没落した後、江雪斎は、秀吉の「御伽衆」となります。簡単に言うと、秀吉の雑談に応じたり、自分の体験談などを話したりする係、だそうです。この時、秀吉の命令で、「板部岡」という姓を「岡野」に改めています。そして、「御伽衆」であった時にも、秀吉の命令で交渉に行くこともありました。

そんなことで評価が高かった江雪斎は、秀吉の死後、長男が使えていた家康の家臣になりました。その後、関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍として仕え、本多忠勝、井伊直政とともの関ヶ原に先行し、小早川秀秋に、東軍に寝返るよう説得にあたりました。

このように、江雪斎は、外交の手腕を武器に、北条、豊臣、徳川に仕え、上手に戦国の世を渡り歩きました。

ちなみに、長男は家康の旗本として、長津田(現在の横浜市)の領主となって、子孫は代々、徳川家の旗本として存続しました。その中の1人、三代領主 岡野房勝は「八百屋お七」の裁きを行ったとも言われていて、岡野家には「お七稲荷」が祭ってあったそうです。

ちなみにちなみに、徳川11代将軍家斉(子だくさんなオットセイ将軍)の側近で、後の老中、水野忠成は、岡野家の分家からの養子なんだそうです。

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