清水宗治

大河ドラマ「軍師官兵衛」を借りてきて見ています。今、備中高松城の戦いのあたり。大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回、本能寺の変が起こるあたりの時期です。最終回に少しだけ、秀吉と官兵衛のシーンがあったのですが、それが、備中高松城の戦いの最中だったんですね。

本能寺で信長が討たれようとしている同じ頃、備中高松城では、城主 清水宗治が攻められていました。この、備中高松城の戦いは、日本三大水攻めの1つに数えられる戦です。

大河ドラマ「軍師官兵衛」は、かなり史実に忠実な展開で、ドラマの中の出来事がほぼそのまま、歴史の資料の中に確認できます。

宗治は、毛利家の家臣として絶大な信頼を得ていた、忠義の武士。ドラマの中でも官兵衛が「降伏するならば、2カ国を与える」と伝えるのですが、宗治は応じず、籠城します。そして、官兵衛の策により、水攻めが行われます。

備中高松城は元々、沼地にありましたので、堤防を作って、川の水を全て城の方へ流せば、城は水に浸かります。梅雨時期だったこともあって、城は湖に浮ぶ孤島のようになってしまいました。水に囲まれた備中高松城は、食べ物が水につかってダメになり、毛利の援軍から救援を受けることもできず、戦うことも、逃げることもできない状況となりました。

毛利家としては、忠義の武士、宗治を死なせたくない・・・。毛利側は、宗治に、秀吉に降伏するよう説得をしましたが、何度説得しても、宗治は拒否、最後は秀吉に、自分の切腹をもって、籠城している者たちの命を助けるようにと嘆願書を送りました。秀吉は宗治に、酒と肴を送り、宗治は側近たちと最後の宴をしました。そして、船に乗って城から出ると、船の上で見事が舞を披露、そのまま、家臣の介錯によって、切腹しました。その後、宗治の兄、弟、家臣たちも切腹。

見届けた秀吉は「これぞ武士の鑑よ」と賞賛し、すぐさま京都方面へと返って行きました。これが「中国大返し」となります。実は、宗治が切腹した前々日、京都で本能寺の変が起こり、信長が討たれたのでした。

宗治の辞世の句。

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」 意味は、「あの世へと旅立つ自分は 武士としての名を高め、高松の地の色あせない苔のように 忠義の名を残していくのだ」

宗治の忠義は、息子、子孫たちが受け付き、毛利に尽くしたそうです。

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