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「スポーツのチカラ」ってなんだ

「その瞬間」私は、都内の繁華街にある異常に壁の薄いビジネスホテルにいた。隣の部屋からうっすらと聞こえる「ドウアン!!!!」という叫び声とともに目を覚ましたのだ。ハッとして目の前の小さなテレビを見ると、サッカー日本代表の堂安律選手が他の選手たちに囲まれてゴールを祝福されていた。どうやら私は、カタールワールドカップの日本vsスペイン戦を観ている間にウトウトして寝てしまっていたらしい。

しかしその後の日本代表の目の覚めるような攻撃で、私の眠気は完全に吹っ飛んだ。なんと日本代表はその後にもう1点追加し、ドイツに続いて優勝候補のスペインも倒してしまったのだ。

堂々のグループリーグ1位突破である。誰がこんな結末を予想できただろうか。未明の早い時間帯にもかかわらず、ツイッターは驚きと喜びの声で溢れ、日が昇る頃には新聞の号外が出るなど日本中が大騒ぎになっていた。

サッカー業界の片隅に身を置く者としてというよりは、もう単純に長年のサッカーファンとして心から嬉しかった。

中でも強く心を動かされたのは、2点目のゴールをアシストした三笘薫選手のプレーだった。ゴールラインギリギリに出されたパスを必死に追いかけ、どうにか追いついて折り返し、そこに小学生時代からの幼なじみである田中碧選手が飛び込んでゴールを決めたのだが、この折り返し位置があまりにもギリギリの位置だったため、ラインを越えているのではないかという疑惑が持たれた。結果、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)により、ボールはラインにかかっていると判定され、見事得点が認められた。

これだけ広いピッチで、わずか数ミリが明暗を分けたのだ。

もしも三笘選手がほんの少し反応が遅れていたり、「間に合わないな」と勝手に判断してボールを追うのを諦めていたら、日本は追加点を得ることができず、グループリーグ敗退し、代わりにドイツが決勝トーナメントに進んでいたかもしれない。ほんの1mm、0.1秒、そのわずかな差が明暗を分ける、それがスポーツというものである。

このプレーに対して、私はある年のワールドカップのゴールシーンを思い出していた。日韓共催のベルギー戦で鈴木隆行選手が放った伝説の「つま先ゴール」だ。

サッカーのゴールシーンというと、豪快なミドルシュートやヘディングシュートなど、華麗で力強いイメージがあるかもしれないが、そのゴールは不思議なゴールで、小野伸二選手が出したロングパスに、必死で足を伸ばした鈴木選手のつま先が当たって入ったというものだった。

当時私は、このゴールを「ごっつぁんゴール(ラッキーなゴール)」だと思っていた。でも、仕事でスポーツに関わるようになり、あれはラッキーなんかじゃないと思うようになった。鈴木選手も、今回の三笘選手と同じように最後まで諦めなかった。諦めない心、そしてその気持ちを培う日々の練習や節制、一言で言うと「努力」が実を結んだ結果のゴールだった。日頃からさまざまなものを犠牲にして努力をしていたからこそ、二人とも大舞台でチャンスを掴めたのである。

スポーツが良いなと思うのは、こういうところかもしれないと思った。

別に鈴木選手も三笘選手も「努力しなさい」とか「努力は大切だよ」なんて一言も言っていないのである。むしろ、彼らにそんな話をされても「いやいや、あなたたちはもともとすごい人だから...」と、凡人の自分なんかは耳を塞ぎたくなってしまうかもしれない。

だけど私は間違いなく、今朝壁の薄いビジネスホテルのベッドの上で努力の大切さをヒシヒシと感じていた。でも実際のところ、鈴木選手や三笘選手がどれほどの努力をしたかなんて知らない。ただプレーを見て「彼らは相当な努力をしていたに違いない」と思い込み、勝手な解釈で「やっぱり努力は大事だね」と思っているだけなのだ。

でも、実はこれこそがスポーツのチカラなのではないかと思うのだ。

昔からスポーツには人の心を動かす力があると言われるが、私はこれがずっと不思議だった。多くのスポーツは、ルールに則って走ったり、ボールを蹴ったり、投げたりしているだけなのだ。なぜこうしたただの動作に心を動かされるのかというと、私たち自身が勝手にその動作に「意味」を見出しているからではないだろうか。

なぜ三笘選手はあのとき諦めなかったのか、なぜ堂安選手はあそこでミドルシュートが打てたのか、なぜ森保監督はこの選手たちをスタメンに起用したのか、なぜ日本は勝てたのか、1つ1つの出来事に意味付けをして勝手に「気づき」を得ている。それが合っているか間違っているかはわからないけれども、自分自身の気づきなので納得はできる。誰かに押し付けられた「答え」じゃないからだ。

スポーツの良いところは、この解釈の幅が広く、自由度が高いことだ。なにせプレーしている本人たちは、ただルールに則って一生懸命体を動かしているだけだからである。何も押し付けがましくないし、説教くさくもない。

さらに面白いのは、勝っても負けてもその「意味」が見出せるというところだ。レベルが高くても低くても、プロでもアマチュアでも。どんなゲームでも、子どもの運動会でも、意味は見出せる。

だから私はスポーツが好きなんだろう。100人いたら100通りの解釈があるから。そしてそれを許してくれる「自由」があるから。

この記事は、日本財団HEROsが主催するエッセイコンテスト「スポーツのチカラ」のために書きました。みなさんも、ぜひご参加ください!

日本財団HEROs「#スポーツのチカラを感じた瞬間」
https://note.sportsmanship-heros.jp/n/na9d00722b166


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