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31歳の主張(自己紹介記事)

はじめまして、えとろぐです。
自分自身を内省するために「note」の記事執筆を始めました。
過去にも記事の投稿を行っているのですが、継続性がなく、中途半端な状態となっています。
そういった「だらしなさ」も含めて、ありのままの自分を受け入れた上で、自身の棚卸しができればと考えています。

本記事は「有益性<人物像を伝える」ことを主眼としているため、タイムパフォーマンスを重視されている方は「note公式」で紹介されている記事を是非ご覧下さい。様々な特集が組まれているので良い出会いがあるはずです。

↓一つでも当てはまるなら、是非仲良くしてください↓
☑︎ 価値観の合う仲間を探している
☑︎ 思うように習慣化できない
☑︎ パートナーのダイエットを応援したい
☑︎ 自身も痩せたいと考えている

私自身、考え方は違えど、似た価値観を持つ方との出会いを求めています。
SNSの発展で他者と関わりやすくなりましたが、自分も含めて「良く見せる」発信が多く、直接交流を持つのに躊躇いを感じてしまいます。
原体験も交えた価値観や性格特性をあえて自分から発信することで、同じように「この人は信頼できるかな?」と疑心暗鬼になっている方の思いを払拭し、実際の関わりに繋げられれば嬉しいです。

それではよろしくお願いします。

私のSNSアカウント↓
Twitter:https://twitter.com/etolog_25
Instagram:https://www.instagram.com/etolog___25/

私はお世辞にも「できた人間」ではありません。飽きっぽいですし、マイペースで、リズムを崩されると機嫌が悪くなります。
欲しいと思った物でも徹底的に比較、検討してから数年後に購入する始末です。
幼少期に太っていて、ダイエットを繰り返し行っていた体験から誰かと一緒にご飯を食べることが嫌で嫌で仕方ありません。
そんな私でも今は「人生満喫してるな」と感じることが多くあります。
性格や原体験を通して形成された価値観、それがベースとなって今打ち込んでいることを残していければと思います。

目次で「ああ、こんな人なのね」とパッとわかるように構成を組んでいますので、読んでみようかなと感じた方は是非続きをご覧ください。

性格

私の人間性を見つめ直した時に思い浮かんだ「性格」が次の5つです。
短所と長所は表裏一体ですので、自身の性格が嫌いなわけでは決してないのですが、どういった人物であるのかを知っていただくためには思いついたまま書き出しました。

飽き性で新しいもの好き

30歳になるまでの半生で私が行ってきたことは以下の通り。
・バス釣り
・囲碁
・RPG(主にファイナルファンタジー)
・野球
・バスケ
・駅伝
・ブレイクダンス
・スケートボード
・スノーボード
・ウェイクボード
・音楽編集
・イタリアンのFC店バイト
・事務所移転の派遣バイト
読書
・動画鑑賞
・ディアボロ
SNSでの発信活動
・転職
ダイエット など

長く続いたものもありますが、現在行なっているものはごくわずか。
始めてはやめてを繰り返してきました。

面倒くさがりでマイペース

母は私が小学1年生の頃に離婚し、一人息子である私を女手一つで育ててくれました。当然、経済的に恵まれている訳もなく、母は夜遅くまで働き、一人で過ごす時間がほとんど。
そうなれば自然と「他者からの干渉」が少なくなり、行動の制限が少ない反面で、適度な躾・軌道修正がない環境で育ってきました。
組織に属するといかに会社の歯車として機能するかが肝要だったりします。現在はこの性格と求められていることへのアンマッチに苦痛を感じています。
また、家族同士の触れ合いが極端に少なかったことで「AをしたらBと思うだろうな」という相手の気持ちを慮ることが苦手でした。社会人となり、他者と触れ合う機会が増えたことで多少、その欠点が薄れてきたと思うのですが、かなり意識して相手を理解しようとしなければ元に戻ってしまいます。

頑張っている人を応援したくなる

飽き性であったこと、経済的に辛い状況であったことから「逆境にもめげずに挑戦し続けている人」がとても魅力的に映ります。
この世界にはどうしても「頑張れない人」もいることは頭で理解していますが、逆境に立ち向かっている人が目に止まってしまう。
成果の有無ではなくて、「なんでそこまでやれるの?」と思った時、理屈じゃない感情が働いてしまいます。

人の目が気になる

両親が離婚した小学1年生の頃から、小学校を卒業するまで、私と似た境遇の友人はいませんでした。
母が私のために必死になって働いていることは幼いながらに勘づいていましたし、実際、夜遅くに帰ってくることが当たり前でした。
「いつも一人な可哀想な子」と思われることが嫌で冗談ばかり学校の中で言っていたのを覚えています。

皆さんは週刊少年ジャンプに掲載されていた「NARUTO」をご存知でしょうか。世の災厄と呼ばれる「九尾の妖狐」を体に宿され、同じ里に暮らす人々から恐れられ、嫌われていた主人公「うずまきナルト」が里の長である火影になるまでの物語です。
ナルトと比べると私の境遇など可愛いものですが、どこかシンパシーを感じざるを得ません。
物語中にも周囲の関心を惹くためにイタズラを行う様子が描かれていますが、気丈に振る舞い、周囲から「可哀想なやつ」と思われないようにしているナルトは冗談ばかり言っていた私と似ていると勝手に思っていました。

もちろん、この漫画は私の大好きな漫画の一つです。

物の購入は引くほど慎重

経済環境もありますが、多様なことに触れる機会が少なかった幼少期。
何が自分にとって良くて、何が悪いのか、というモノサシを持たずに成長してきました。
そんな私が頼りにしているのが「ネットでのレビュー」です。
ただ、100人いれば100人の感じ方があるように、そのレビューをどれだけ読んでも私にとって本当にいいものであるのかは分かりません。
そうこうしているうちに購入を検討してから数年経過していることも珍しくないです。
今だと「トラックボールマウス」や「トートバッグ」、「革靴」などを2年ぐらい購入待ちの状態となっています笑

価値観

ここからは私の性格と原体験を通して形作られた「価値観」について述べていきます。私のモットーと言い換えても良いかもしれませんね。
幼稚な人間性ですが、過去の体験のその全てがあったからこそ、今の価値観形成につながっていると考えています。それに、私を支えてくださった方達のおかげでもありますね。

困っている人を放っておけない

目の前で誰かが困っている時、あまり後先考えずに行動します。
「仕事」を行う場面では「良い印象」と「悪い印象」の両方を与えてしまう諸刃の剣ですが、私の価値観の土台に位置しています。

私は幼い頃から「一人で過ごす」ことが当たり前でした。
そして、お金がない状況というのも私の中での常識でした。
そんな私でも大きく道を踏み外さずにいるのは、「他者」の存在があったからこそです。

どれだけ帰りが遅くなっても食べるものを用意してくれ、学校にも通わせてくれた母。
鍵っ子な私を心配し、放課後にも面倒を見てくれた担任の先生方。
バカなことしかしない私と遊び、そのせいで真冬の池に一緒に落ちた友人たち。
母と離れ、母の実家で暮らすこととなったとき、いつも美味しいご飯を用意してくれた祖母。
我が子のようにいつでも可愛がってくれた叔母。
私の人間性を心から理解しようとし、涙ながらに素行の悪さを改めてくれた中学校の担任の先生。
小学生〜現在に至るまで変わらず接してくれる親友。
自動車学校に通うお金がなく、どうしようか悩んでいるときに「出世払い」で資金援助してくれたおじさん。
無闇矢鱈に嫌いな人をつくらず、その人の魅力的なところに目を向けることを教えてくれた片思いの人。
だらしない時に叱責してくれた野球部の監督や上司。
転職し、関係性が薄れた今でも機会があるたびに連絡をくれる同期。
私の挑戦やだらしのない性格全てを受け入れてくれる妻。

これだけの人たちに支えられ、生きてきて、私が困っている人を見捨てるのは罰当たりすぎます。
正直、全員に手を差し伸べることはできません。
でもせめて、私の手の届く範囲であるならばなんとか助けたいと思うのです。

嫌いな人をつくらない

偶然自動車学校で出会った女性から教わった考え方。
いたずらに人のことを嫌いになるのではなく、好きにはなれなくても、どこか「すごいな」と思えるところを探す努力をすること。
全員のことを好きになる必要はないですが、それと同じぐらい「嫌いになる必要もない」そうです。
どこまでいっても私たちは誰かと共生していかなくてはなりません。
まだ18歳だったと思うのですが、その年齢からそれだけ達観した考えを持っている彼女に出会えたこと、これは私史上最大級の財産ですね。心から感謝しています。

相手に変化を求めない

「人を変えることはできない」
これが私の持論です。
心を揺さぶるような「出会い」や「出来事」、新しい習慣に落とし込もうとする「覚悟」がない限り、人は変わりません。変える「きっかけ」を与えることはできると思いますが、変わるかどうかはその人次第。決して他人がどうこうできるような話ではないと思うのです。
なので「俺があいつを変える」なんてことは烏滸がましく思いますし、とても相手に強要することなどできません。

自分の命は自分のためにあらず

「このままでは駄目だ」と感じ、一念発起した2021年。一日の時間の使い方を見直し始めたこの時期に書籍『運転者』と出会いました。喜多川さんの綴る物語に触れたことが私の価値観を大きく変えてくれました。

日々の生活の中で行う「善行」は巡りめぐって返ってくると私は信じています。それは「今すぐ」かもしれませんし、生きている間ではないかもしれません。
それでも、「いつか」返ってくるものだと信じることができれば常日頃の立ち居振る舞いを正そうと思えるのです。
私の人生でそのリターンを得られないかもしれません。もしかすると我が子や孫の代にも返ってこない可能性もあります。ただ、子々孫々の善行がどこかのタイミングで返ってくると信じていれば私の小さな善行も大きな意味を持つのではないでしょうか。

自身の生きる目的を見つめ直したとき、自然の一部、糧となる覚悟が生まれました。利己と利他の両方が内在しているカオスな状態ではありますが、その「非合理」な感じが人間であり、私でもあると今は受け入れられています。
自分のために生きつつも、子や孫、その先の未来のためにこれからも生きていこうと思います。
参考までに書籍の簡単な紹介です↓

出典:Amazon.co.jp

報われない努力なんてない!
累計100万部 喜多川泰、渾身の感動作!

***
中年にして歩合制の保険営業に転職し、二年目の修一。
しかし、なかなか思うように成果が上がらない日々を過ごしていた。

ある日、唐突な担当顧客の大量解約を受け、
いよいよ金銭的にも精神的にも窮地に追いやられてしまう。
妻が楽しみにしていた海外旅行計画はキャンセルするしかない。
娘は不登校に陥っているうえに、今後の学費の工面も難しくなるだろう。
さらに長い間帰れていない実家で一人暮らしをしている、
母からの電話が心にのしかかる。

「……なんで俺ばっかりこんな目に合うんだよ」

思わず独り言を言ったそのとき、
ふと目の前に、タクシーが近づいてくるのに修一は気がつく。
それは乗客の「運」を「転」ずるという摩訶不思議なタクシーで――?

***

運が劇的に変わる時、場というのが、人生にはあります。あなたにも。
運はいいか悪いで表現するものじゃないんですよ。
使う・貯めるで表現するものなんです。
先に貯めるがあって、ある程度貯まったら使うができる。
運は後払いです。何もしていないのにいいことが起こったりしないんです。
周囲から運がいいと思われている人は、貯まったから使っただけです。

運転者 未来を変える過去からの使者 紹介文より

足るを知った上で心地よく暮らす

年齢を重ねるとともに自分の好みが少しずつわかってきたように思います。そういった変化の中で「ミニマリズム」という考え方に触れたことで「足るを知る」思考へ向かうようになりました。

ミニマリズム: minimalism)は、完成度を追求するために、装飾的趣向を凝らすのではなく、むしろそれらを必要最小限まで省略する表現スタイル(様式)[1]ミニマリスムとも表記される。「最小限主義」とも。

Wikipedia

「大量消費社会」と現代は評されますが、その揺り戻しは確実に起きています。「SDGs」「カーボンニュートラル」が特に目にするワードですよね。

タイトルから脱線してしまいますが、この話題の流れで頭に浮かんだことを記していきます。

私は世界全体の潮流にあまり関心が強くありません。
ただ個人として
・人やモノを大切にする
・自分の必要量を知る
・便利さを享受する上で「ただ」を考える
・コスパ、タイパに過剰に振り回されない
ことを意識することが結果として、この世界の持続可能性に繋がっていくのではないか、と考えています。
特に私は「タイムパフォーマンス(=タイパ)」の考え方、大嫌いですね。
ビジネスの中での話なら「アリ」です。リソースを適切に配分し、生産性高く物事を成していく、そして人材の成長にも繋がると思いますので。

ですが私生活にも「タイパ」の考え方を取り入れるのはいかがなものかと。
効率よく生きていくということは何かしらの枠、歯車、システム・・・などに組み込まれることと同義だと私は思います。
それって「自分の人生」を生きてきた中で何か残りますか?
ほろ苦い経験、そこからの成功体験、大きな挫折などがあるからこそ、深く刻まれるのではないでしょうか。
「失敗=時間の無駄」という考えでタイパを求めているのであれば、長い目線で見たときに厚みのない人生になる可能性が高くなると考えています。
できれば「失敗」はして欲しくないと我が子に対しても、自分自身に対しても思いますが、それでも失敗から学ぶことはたくさんあります。「大きく回り道した気がするけど、結果最短ルートだったね」と思えるように歩んでほしいなと自戒も含めて思いますね。

話は戻って、「ミニマリズム」についてです。
まだ全てのモノ・コトについて「最小化」できている訳ではありませんが、服や靴についてはかなり進んできました。


仕事用・・・・・2足
散歩用・・・・・2足
私服用・・・・・2足
冠婚葬祭用・・・1足


仕事用・・・・・2着(作業着)、2着(スーツ)
自宅用・・・・・2着
私服用・・・・・春〜秋 2着(上下) 秋〜春 2着+アウター2着
※決まった服をシーズン通して着用し、夏は半袖をそのシーズン用で購入。冬はインナーダウンとアウターの重ね着で対応
冠婚葬祭用・・・1着

おかげでいつも白黒の服+黒ローファーというスタイルですが、割と気に入っているのでアップデートしながら続けていこうと思います。

道は切り拓いていける

「努力」が報われるとは限りません。それは真実だとしても「明けない夜はない」と信じた方が気が楽ですよね。
たとえ気休めだとしても、心の拠り所があった方が頑張れると思うのです。

決して悲観的になることなく、かといって楽観主義に浸るでもなく、状況に応じて両方のシナリオを考えられるような度量の広さを身につけていきたいなと考えています。
今はどちらかというと「楽観的」に物事を考えてしまっているので、過信・慢心とならぬよう、自戒も含めてこの価値観を大切にしていきます。

あまり多くありませんが、乗り越えた悩みです。
「知識」については学べば学ぶほど、「まだまだだな」と思って知識のなさに辟易してしまいますが、逆にそれをモチベーションにして現在も学びを継続しています。

体重の増減に悩み
→1日1.5食の生活を4年間以上続けたことで56〜58kgを2年間キープ
 毎朝の自重トレを10年間以上継続

学がないことへの悩み
→2021年2月から始めた読書週間
 今では、170冊以上のビジネス・健康・美容・自己啓発などを読破

これが稼ぎに繋がると家族に楽をさせてあげれるのですが笑
ただ、この習慣が「良くなっている」実感を生んでいるので、これからも継続していきます。

現在打ち込んでいること

妻への産後ダイエットサポート

サポートしようと思った動機は「ダイエットの成功経験もあるし、助けになるかも」といった、安易なものです。
実際行ってみると、妻の精神ケアやダイエットへの理解(栄養学や筋トレ、食事法など)で行き詰まることが多々ありました。

精神状態のヒヤリングや目標設定、アプローチ方法はコーチングの書籍や教材を購入して学びました。
ダイエットの理解を深めるために動画メディアやSNS、書籍からひたすらに情報をかき集めてきました。
中には発信者、著者によって正反対な主張があったりもして、疑心暗鬼になりながらも、自分の実体験をもとにして咀嚼しながら、妻へのアドバイスに繋げています。

まだ産後ダイエットは始まったばかり。
淡々と自身にあった最適解で継続することがダイエットの軸であると最近では思います。つまり、完全にフィットする巷のダイエット法はないということです。
個人の生活スタイルや性格を考慮した上で、世のダイエット方法を取り入れていかなくてはリバウンドは必至。それでは私も妻も不幸になってしまうので、真剣に向き合っていきます。

体型維持

今私は「健康で長生きをする」ことに関心を強く持っています。
ある程度子どもに手がかからないようになり、ひと段落がついてから行おうとしている妻との時間がとても楽しみなのです。

私たちには「日本全国を車で旅行する」という「全国制覇」の目標があります。それを妻と二人で叶えていくことがすごく楽しみにしていること。
どうしても子どもが幼いうちは長時間のドライブが難しい側面があるので、今はその時ではないと感じている一方で、近場であっても家族みんなで過ごすひとときを大切にしています。

お金があっても、時間があっても、「健康」でなければ十分に活かせませんよね。また、健康でお金があっても時間がなければ無用の長物です。
どれが欠けてもバランスは崩れてしまうので、一度に全部は無理ですが、少しずつ整えていこうと思います。

また、「ミニマリズム」を体現する上で後述の「モノを持ちすぎない暮らし」は必須。そんな中で体型の増減が激しく、服の買い替えをたびたび行っていては絵に描いた餅となってしまいます。
そういった意味でも体型維持、すなわちダイエットは一生続けていくことが決定しました。

モノを持ちすぎない暮らし

これは「モノを大切にする暮らし」と言い換えても良いかもしれません。
大量に物が作られ続けてきた揺り戻しで、モノの再利用や長くモノを使う考え方が一般的になりつつあるのではないでしょうか。
そして何かモノを買うということは「選択」をその都度行っているということです。人の意志力には限りがあるとされ、この「選択」によって意志力が消耗されていきます。
一つのモノを購入するまでの過程でいったいいくつの意思決定を行うでしょう。検討しているモノによって多寡があると思いますが、恐らく一つや二つに留まらないでしょう。
そういったことに時間や意志力を費やしたくないという思いから、「モノを持ちすぎない暮らし」を実現していければと考えています。

知的好奇心を育み、満たす

この世の全てを知り、理解することはできません。
しかし、目の前に起きたことを先人たちの学びを生かすことはできます。
そのためには日頃から学び続けなくてはなりませんし、AIツールや検索エンジンを活用することも必要となってきます。
ただ、関心がなければ「調べる」「知ろうとする」行動に至りません。だからこそ、人の持つ「探究心」や「知的好奇心」は大切にしていこうと私の価値観の一つとしました。
私の言葉ではありませんが、「知識」について検索していたら、フランシス・ベーコンの有名な格言が出てきたので紹介します。

”知識は力なり”
***
I. 自然の下僕かつ解釈者たる人間は、自然のふるまいに対する事実または思考の中に観測できた分だけを、実行・理解可能だ。これを超えては、何も知ることがないし、何も行うことができない。
II. 人間の素手にせよ、理解力にせよ、それだけでは、十分な結果をもたらすことは不可能だ。道具や補助器具を利用してこそ、[人間の手によって]仕事は成されるのだが、それら[助けとなる道具]は手だけではなく理解力にも必要とされている。手のうちにある道具が機能をもたらし手を導くように、精神の道具も理解力と注意力を補強する。
III. 人間の知識と力は一致する、というのも、原因を知らなければ、結果を生み出すこともできないからだ (Scientia et potentia humana in idem coincidunt, quia ignoratio causae destituit effectum.)。自然を支配するためには、自然に仕えなければならない。思索における原因は、作業における規則に対応する。
IV. 仕事を成し遂げるために、人間ができる唯一のことは、自然の実体を、まとめたり、ばらばらにしたりすることだけだ。残りは、自然の性質によって、自然の内部でなされる。
***
ノヴム・オルガヌム』 フランシス・ベーコン

Wikipedia

技術の進歩によって「知識」自体に価値はなくなると思います。
ですが、「知識」を土台にするからこそ生存できたのもまた事実。野生動物に比べて単純な「力」が劣っていますからね。
過去から学び、未来に活かす。それをリアルで行えるのは私たちだけだと思うと、技術の進歩にも前向きに捉えられるのではないでしょうか。
「オンライン」であることが当たり前となりつつ現代社会。リアルでの体験にも目を向けながら生きていきたいです。

おわりに

何処の馬の骨ともわからない私の記事を最後まで読んでいただきありがとうございます。
一生は難しいかもしれませんが、永く続けられることを現在模索中です。
それは「仕事」かもしれませんし、「読書」や「教育」などかもしれません。はたまた「スポーツ」なんてこともあるかもしれないですね。

今より若い頃は「長生きしたい」なんて微塵にも感じませんでしたが、健康で長く生きていたいと心から思います。
そんな風に思うことができるようにしてくれたこれまでの出会いやできごと全てに感謝です。



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