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生きるを選んでいる私たち

どうして人間は生きるのであろうか



家の最寄り駅の目の前に大きな立派な木が生えているのだが、その木の葉が真っ赤に色づいていて、そしてその中の1枚の葉っぱが風に吹かれて散っていった瞬間にふとこんな考え事が頭を過った。

英語ではleafの複数形はleavesだけれど、日本語で葉の複数形は葉でしかないな、とかそんなことも考えていた。

それはともかく、わたしたちはどうして生きているのだろうか。

生きていれば多かれ少なかれ、大きかれ小さかれ、
悲しかったり寂しかったり辛かったりすることがわりとあるのが人生だ。

緑みどりしい葉っぱのように栄養がたくさんあって元気な時は多少の衝撃やハプニングにも耐えることができて生きるということ自体に揺るぐことはないが、紅葉した葉っぱのように必死で必死で根っこにしがみ付いて、それでも風が少し強めに吹いた時に、根っこから離れてしまう時だってある。

以前、私自身がネガティブ期マックスの時に周囲に問うたことがある。

人ってなんで生きるんだろう、と。

その時に夫は、「うーん、俺の場合は、俺が生きるという選択をしなかったら両親も兄弟もEtoileも悲しむ可能性があるでしょ。悲しむ可能性がある人がこの世にいるまでは生きる以外考えないと思っているよ」とのことだった。

母は、「私がいなくなったら、周りが絶対潰れてしまうし、大変こともあるけれど、いや、大変なことしかないかもだけれど、この世に生かされていると思って生きているよ」と言っていた。

それを聞いて私は、母は私の弟の育児だったり祖母の介護をしていたり、母一人で何役もかっている感じのエネルギッシュな人なので、たしかにな、と思った。

私の仲のよい友人は、「日々楽しむために、好きなことをやるために、生きているよ」と言っていた。

「僕は今日が人生の最後の日となったとしても悔いがないようにをテーマとして毎日精一杯生きるようにしているよ」と言っていた友人もいた。

なんだかみんなすごいなと感心した。

ふむふむ、
じゃぁなんで私は生きているのだろう。

よく、人には生をもらった意味があって、何かを成し遂げるためにみんなこの世に生まれてきたんだみたいなことを聞くけれど、そんなもの私にはあるものなのかピンときていないし、いつの日か分かるようになるのかもしれないしならないかもしれないよなと思っている。

私の場合はこんな感じであろうか。

「あー、幸せだな」と思う瞬間、「あー、世界って広くて自分ってちっぽけなんだな」と思う瞬間、綺麗な景色を観て心がじわっとして感動した瞬間、これらの瞬間が生きている中にある限り、その瞬間を楽しみに私は生きているのだろう、と。


最近目も心も奪われた景色

何かを成し遂げたいから..
叶えたい夢があるから…

そんな大それた目的がなくとも良い。

未来に少しの感じたい瞬間があるから、
きっと私は生きることを選んでいて、そこに揺らぐことはないのだろう。


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