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SNSで顔や声が見えない聞こえないことが当たり前になるとどうなるのか。考えてみた。


言葉を選びとりたい、と言う結論。
短い言葉を選べる語彙力が足りないので
思っていることがまとまりません。

長くなってしまった。
めんどくさいやつだなと改めて自覚しつつ
つらつらつらと。
SNSのお話です。

言葉だけで繋がるSNS。
はじめはよかったのになんだかめんどくさい、
と思う人が増えてきたように思います。
私もそういう時があります。

また、言葉だけのツールになることで
うまく表現できないことを悩むことも。

言葉でしか繋がることのできないということは、言葉を通じて様々な可能性が広がっていることなのだけれども、その可能性が広がりすぎて誤解を招くから。

言葉だけで伝えることを大切にできなくなると
思い悩むことも増えてしまうので
考えないようになる。
そうするとパパパっとお手軽になる。
買えば作らずともすぐ手に入る食べ物のよう。

雑になります。
攻撃的になったり、
言葉が刃物のようになってしまうかもしれない。

そうなると本当なら顔を見て声を聞いて
なんてことのなかったことでも
小さなすれ違いから
大きな誤解が生じてしまう。
人それぞれが思う気持ちで良いはずなのに、
過ちに変わってしまう。

ある人は何か違うな、と感じたら
SNSをブロックすればいいという。

言葉には責任はないのだろうか。

自分の口から放たれる言葉は
胸を突き刺すような弓矢になったり
切り裂く刃物になっていないだろうか。

放っておいて立ち去る。
その矢や刃物を自分で受け取ることはしない。
関係性すらなかったものになってしまう。

それに慣れていくと
リアルでも同じように
するようになるかもしれない。

リアルがわからなくなる。
顔を見て声を聴くことや
気持ちを表情や声で伝える感情が薄らいでいく。
できなくなっている自分に気がつく。

私はSNSとの関係が
リアルより深くなりすぎると
今あるべき優しさ、誠実さが
めんどくさい、に
一括りにされてしまうのではないか。

そう思ってきました。

例えば、長文のLINEだと
うわぁ。読むの大変。とか。
いきなりスタンプだけだと
え?なになに?とか。
スタンプの多用。ビックリマークの多用。
読点、句点、主語なし。
既読のお返事を考えていたら
相手からどんどん凄い勢いで送られてきて
考えることができないとか。 
ちょっと待ってね、と言葉を挟んでみる。
しっかり返信したいから。
そう思っているうちにスッキリしたみたいで
じゃーねーと終わる。
いただく言葉の割合が
私の受け取る感情をすり合わせる間も無く終了。

りょ、草。など私は使ったことがないのだけれど
ずっと違和感を感じていました。もうそこから先は知らなくてもいいことにしました。

SNSは端的にハッシュタグをつけて
呟けばいい。短い方がカッコいい。とか。

そう言う使い方なのだと。
忙しい現代ならではなのだけれど。

言葉自体、SNS自体が悪いものではないにしても、その前後の繋がりを見出すことができないことが多くなるのではないだろうか。

猫ちゃんやわんちゃんの写真なら
風景ならそれができる。
大まかなことは、見たものが全てだからだ。

では、人はどうなのだろう。
人となると様々な感情が見る人にも
載せる人にもあるので
言葉が足りなくなる。

忙しいなら一瞬しか見ない。
汲み取ることなどできない。

その時、
別にそんなもんだから考えることないよ。
と多くの人は言う。
それが私には
できるものとそうでないものがある。

自分も同じように合わせるのか。
それは心がもやりとしないのか考えてみた。

これって今は本当に難しい。
誰でもない自分になれる場所がSNSだから。
そうであるからこそ
私も今こうして思いを書くことができている。

だからと言って何を言っても良いのだろうか。
発言の自由はある。
そこに自分の口から出たものが返ってくるという
感情をすっぽり抜け落ちてしまうような
使い方にはなっていないだろうか。

深く考えさせられる。

何倍もどのように伝え、どのように表現したいのかを懸命に考え練習し努力している人たちがいる。
なんだろう。
言葉の職人とでも言えるかのようだ。

その人たちの言葉や表情は
優しく穏やかで心豊かに見える。

優しい言葉は人を生かす。
勇気を与え、力をくれる。
私は何度救われてきただろう。

辛辣な言葉を見ると
心が傷む。
正義ではない。正義など元々ないんじゃないか。
白黒じゃない。それでいい。
そのうち自分のこれこれ、この言葉を使いたい。という表現たちが
見つかればいいなと思っている。

私は自分が退化してしまっていないかと思う。
便利になればなるほど
真剣に向き合うことを恐れてはいけない、
そう自分に言い聞かせている。

優しく丁寧に伝える、暮らすということは
めんどくさいことなのだ。

そこに素晴らしい過程がある。
私はそう思っている。

全然できていない。
めんどくさい。パパパっがいい。
SNSもたっぷり使っている。
言葉だって全くできていなくて
反省ばかり。
リアルではなおさら難しい。
顔を見て空気を感じて言葉を
瞬時に発してしまった時の取り返しのつかなさ。

それでも私はやり切れなくて、
元カレのことを吹っ切りたくて
はげてしまえーって海に向かって
瞬時に思いきり
叫んでしまったりもした。
これはスッキリしちゃった。

また矛盾したことを言っている。

だけど、
本当に本人に向かって叫んでいたとしたら
本人が傷ついてしまったら。
私が傷つけられた以上に
私は残酷な人間になる。
それは嫌なのだ。

途中から私に変化があった。
吐き捨てた言葉達を
もし元カレに見られてもいいと思って書いていたのかもしれない。多分。
教えるつもりは全くないのだけれど。
それでも、

あなたに伝えることができなかった言葉。
あなたに理解してもらえなかった言葉。
本当の私はこう思っていた、今はこう思う。
そう伝えたくてきっと書いていたのかもしれないと気がついた。

気がついたのは昨日だ。
吐き出しながら諦めながら
私を縛る自分を解放したかった。
そこに希望があったのだと思った。

顔が見えなくとも見てくれている人がいる。
ハンドルを誤ってしまえば
落ちるのだ。

スピードを落とし、ゆっくりゆっくりと
目の前をこんこんと叩きながら
進むくらいで私はちょうど良いのかもしれない。

映えなくていいから
見えないものを見ることのできる人になりたい。
そして優しさは言わないことも
伝えることも優しさだと思っている。

変化を恐れたくはない。
書き落とした後の自分の始末を
私は自分であの時こうだった、と
ちゃんと説明して
責任を取りたいのかもしれない。

自分自身のために。

言い訳がましくめんどくさい。
何言ってるんだろう。

でも私は表現したかった。
それがSNSの使い方になっていた。

これはエゴなのだろうか。
変化しちゃうんだから仕方がない。。

SNSとの向き合い方は
私は
人以上に適度な距離が必要なのかもしれない。

正解などわからない。
自分にわからないものを
誰かがわかるのだとしたら
教えてもらおうと思っている。

SNSの世界でも
リアルに生きている人が書いている。
ここを忘れたくはない。
知らなかったことを
知ることで色々試してやってみて
繋がってふわりと交わして
人は生きやすくなるのではないか。

私の今回書いたことはきっと
洗濯の干し方を
あれやこれや工夫することに似ている。

風の通り方が違うことに気がついた。

私は横干しもしたいけど縦干しもしたい。
気分や量で決まる。

うーん。
全くまとまらない。

それでもこうして書き綴ってみたい。
振り返っては
不器用で浅はかな自分を見たい。

この時代だからこそ
めんどくさいことを言ってみようと思う。

いつもながら、私は長い。

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