『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだことがない人へ
『涼宮ハルヒの憂鬱』がどれだけ素晴らしいかなんてことはわざわざ改めて語るまでもない周知徹底されているような話だが、それでも私がなぜ今こうしてキーボードを叩いているのかというと、『涼宮ハルヒの憂鬱』が角川文庫から改めて発売されたからである。(作業用BGM:「いつもの風景」 涼宮ハルヒの完奏~コンプリートサウンドトラック~より)
厳密に言うのなら第一巻である『涼宮ハルヒの憂鬱』と二巻の『溜息』は一か月以上前の一月二十四日に発売されていたし、同様に三巻『退屈』と四巻『消失』が二月二十三日に発売され、かつ五巻『暴走』と六巻『動揺』の発売を三月二十三日に控えているので「今日がベストだ」と言い切るのは少し難しい。ただそれを置いてもやはり今、このタイミングは『消失』までの四冊が販売されて二週間程度が経過したところなので、改めて『涼宮ハルヒの憂鬱』についてアピールするのに遅すぎるということはないと思う。
少しでも日本のサブカルチャー文化を齧ったことのある人ならばその名前を聞いたことがない人はいないであろうとまで言えるほどに日本のみならず全世界的に有名になっている「涼宮ハルヒ」シリーズなのだが、その始まりの第一巻『涼宮ハルヒの憂鬱』がライトノベル然とした角川スニーカーのキャラ表紙を投げ捨てて角川文庫から改めて発売されたということに全涼宮ハルヒファンは何かしらの感情を抱いたことと思う。小説から、漫画から、アニメから、メディアミックスも様々行われているこの作品は様々な所に入り口がありファンがいる。「涼宮ハルヒ」シリーズのファンでも、原作小説に興味が無いという層もいないわけではないのかもしれない。更に言うならサブカルチャー文化にそもそも興味が無く、小説に関してはライトノベル系列は一切読まない。そういった人が多く存在するのも十分に承知している。
それでも。いや、だからこそ言いたい。
『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説は傑作である。
アニメの出来は最高だった。映画に関しては文句のつけようもない。作られた楽曲も名曲だらけだ。コミックも様々な派生が存在し、そのどれもが異なる魅力を放っている。二次創作に関しても未だに活動は盛んでそこから様々な玉石が発掘されている。それら全て、谷川流の発表した『涼宮ハルヒの憂鬱』という傑作がなくては世に生まれていないのだ。
何が素晴らしい? キャラクターか。ストーリーか。世界観か。独特な文体か。会話劇か。作中に埋め込まれたSF要素か。それらから生み出される純文学的テーマか。もちろん、その全てである。この作品の魅力は私一人で語り切れるものではない。発表から十五年という月日を経た本作は様々な論文での言及までされる紛れもない名作である。魅力について詳しく知りたければ、まとめ記事や、論文や、巻末についている豪華な解説を読んでほしい。
いやそれより何より「この小説を最初に読んだ時の感動」を味わえるのは、まだこの作品を読んでいない人だけなのである。まだ涼宮ハルヒについて詳しく知らない? ならばあなたは私より、感動をこれから味わうことができるという点で幸福である。
既読既知な私としては、「涼宮ハルヒ」を知らない人がこの作品を読んで「涼宮ハルヒ」というキャラクターをどのように想像するのかが楽しみだ。それくらい、涼宮ハルヒというキャラクター像は「一人歩き」の極致に至っている。唯我独尊。
偶然でも、気の迷いでも、なんでもいい。記事や論文なんか読まなくてもいい。
涼宮ハルヒと出会ってほしい。
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