理由

 子供の頃の私は何故、好きなものを好きだと言うことを、あんなに躊躇っていたのだろう。
 ひねくれていたという自覚はないけれど、何かを好きだとか人に言った記憶はほとんどない。好きだったマンガの話をした時も、クラスに一人だけいたパーマの子を羨ましく思った時も、それこそ初恋をした時も、それを隠すようなことこそしなかったけれど、面と向かって、あるいは周囲に喧伝する様に好きという言葉を口にすることはなかった。
 そんな話をすると、
「え、みかんってパーマ好きだったの」
「そこじゃないんだけどなぁ」
 白い息と一緒に、とりとめのないセリフが飛び交う。春も近くなったこの時期、戻ってきた寒波に震えながら、すっかり暗くなった道を歩く。
「もうちょっと伸ばした方がいい?」
 こちらを見上げながら、あずさはショートヘアの襟足をくるくると指で弄んでみせる。その指先につい、と視線を引っ張られたけど、すぐに前に戻した。
「いや、うーん。悩ましいな」
 脳内で、ショートヘアの格好良さとゆるふわショートボブの可愛らしさを天秤に掛ける。五分。全くの五分だ。あずさにはどちらも似合う。
「今のショートもすごく好きなんだよね……」
 と、無意識に口に出してから、やっぱりと気付く。今は、好きなものを好きだと言うことに躊躇がない。ごく自然に口をついて出てくるこの言葉に、不快な重さは無い様に思えた。
 私の言葉にえへへと可愛らしく笑うあずさを横目に、記憶を手繰る。
 子供の頃にも同じ様な好きを持っていたはずなのに、自分の口はそれを紡ぐことはなかった。引っ張り上げてみたその事実は今の自分にはとても不思議に感じられる。
「名前なんだっけ、パーマの子」
「あー、なんだっけ。覚えてないや」
「うわ、ひでーやつだ」
「人のこと言えんのかーこのー」
 まぁ、記憶なんてそのくらい曖昧だけれど。

「でも、何でだろーね」
「何が?」
 アパートに着いた。狭い玄関で先に靴を脱ぐあずさのふくらはぎを眺めながら、ぼんやりと口にする。
「いや、何で好きって言わなかったんだろ」
「私に聞かれても。みかんのことでしょ」
「そうだけど、自分で判んないから聞いてんスよ。何かご意見プリーズ」
 話してる間に靴を脱ぎ、キッチンをてってこ歩いて買ってきたいろいろを冷蔵庫へ放り込む。暖房をつけたばかりのリビングはまだ寒さがそこかしこに残っていて、あずさはこたつに滑り込んでいた。先週仕舞い忘れたんだけど結果オーライだ。
「私は割と言う側だったから、それこそ判んないよ」
「んー、まぁそれもそっか」
 あずさとは小学校の頃からの付き合いだけど、会った時から「好き」に一直線の子だった。やりたい事は何でもやってみて、好きなものを好きだと言って、躊躇いなく子供らしさを謳歌しているのを羨ましく眺めていた記憶がある。今でも、少しは羨ましく思っている。
「そんで、言われない側でもあった」
「それは、……申し訳ない」
 そして、小学校からの付き合いだけど今みたいな関係になったのは高校の終わり頃なので下積みは結構長い。あずさから再三再四アプローチはあったのだけど、私の踏ん切りが付かなくてズルズルと引っ張ってしまったのは未だに申し訳なさを感じてしまう。
「ま、結果良しだけどね」
えいえい、と、こたつの中で絡んでくるあずさの裸足は、柔らかさと心地よい冷たさをストッキングの上からでも感じさせた。

「いわざるってあるじゃん」
「いわざる」
 あずさが呟いたその言葉を咄嗟に変換できなくて、手が止まった。じゃがいもは荒く潰すのが良いらしいけれど、荒くってどの程度だろうなって毎回思ったりもする。このくらいか。
 私のオウム返しに伝わっていないこと感じたか、あずさが補足した。
「見ざる聞かざるのやつ」
「ああ、日光の」
 見ざる、聞かざる、言わざるの三猿。日光東照宮に飾られているそれは、私も知識としては知っていた。
 じゃがいもと野菜を混ぜる手元を後ろから覗きながら、あずさは続ける。
「うんあれ。あれって確かそれぞれが災いを呼ぶから気をつけろ的な意味合いだったような記憶があるんだよね」
「そーなの?」
「確か」
 そこまでは知らなかった。まぁ、なんか宗教とかの戒め系だろうなくらいに思っていたけど。
 ふむ。
 災いになるような言葉を言わざる、か。
「でも、好きって言うのが災い呼びますかね」
「いや、だから私は判んないけど、そういうのもあるのかなって。っていうかそもそもみかんの話でしょ」
 大量のマヨネーズと少しの粒マスタードが入って、いよいよ混ぜるのが重くなってきた。ボウルを左腕で抱えるようにして、しゃもじを使って捏ね混ぜる。
「一応さ、気にする人もいるじゃん。同性って」
 その言葉には、ほんの少し湿っぽさを感じた。
 あずさは、私があずさをいつ好きになったのかを知っている。つまり、私がその想いを伝えなかった期間も知っている。それだけの間、私は好きを隠し続けてしまったわけで。
「そういう風に“言わざる”になっちゃった理由が私かもしんないなって、思ってしまったわけです」
 それはそれだけの間、好きって気持ちより世間体を重視したって、捉えることができる。その程度にしか、好きじゃなかったんじゃないのって、そう捉えることもできる話で。
 その意見を聞いたとき、自分がそう思っていたかどうかは関係なく。そういう風に今、思わせてしまったことが申し訳なくなってしまって、
「あ、……、なんか、ごめん」
 咄嗟に謝ってしまった。
「別にいいよ」
 後ろから、入れ忘れていた刻みベーコンを渡される。炒めた肉の香りが鼻を刺激して、ほんの少し鼻を啜った。
「私が想像しちゃっただけで、そうじゃないのは何となく判ってるし」
 背中に寄りかかるあずさの身体の重さとか、柔らかさとか、暖かさとか、そういった全部を心地よいと感じている自分を認めると、罪悪感は少しずつ薄らいでいった。
「ちなみに、私は好きだよ」
 肩越しに手が伸びて来て、ボウルの中身を指で掬う。
「……ポテトサラダ?」
「うん。一緒にお酒があるとなお好きなんだけど」
「今日はダメ」
「えー?」
「デザートあるから」
「お、何?」
「チョコレートムース」
「じゃあワインにしよう」
「じゃあ、じゃないんだよ」
 そんな風にじゃれついている間に、暖房の効いた部屋はすっかり暖かくなっていた。

「別にね。みかんが昔そういう風だったこととか気にしないし。言われなかったのが悲しかったのだってもう昔の話じゃない? 今好きだって言ってくれて、これからも好きだって言ってくれるなら、それでいいと思うんだけど」
 食後。デザートまで綺麗に平らげて上機嫌のあずさは、右手に持ったマグカップを軽く振ってこっちを指してきた。お酒は入ってないはずなのに、大分頬が赤らんでいるように見える。暖房が効きすぎているかもしれない。
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ。少なくとも、私はね」
 マグカップに残った牛乳をグイと飲み干して、唇に残ったそれをぺろりと舐めとる。何かを思いついたらしく目元をへにゃりと歪めた。その口から出てきた言葉には、
「で、バレンタインに手作り料理にデザートまで用意してくれるみかんちゃんは、私のことをどう思っているのかなー?」
 判りやすいくらい揶揄いのニュアンスが含まれていた。
「……、そういう煽りしてくるとこ嫌いだなー」
 真っ直ぐじゃないものには真っ直ぐじゃなく返答する。さっきの罪悪感がちょこっとだけ顔を覗かせたけれど、それはすぐに暖かい空気の向こうに隠れていった。
 真剣に伝えるのは、やっぱりどうしたって恥ずかしい部分はある。子供の頃より言えるようになった自覚はあるけど、それでもだ。
「あー、ごめんごめん。こうじゃないね」
 マグカップを置く音がしたと思ったら、テーブルの向こうから手が伸びてきた。グイっと両頬を押さえて引き寄せられ、上半身がちょっときついくらいに前傾する。思わずテーブルに手を付いた。
 両手で固定された私の顔の真ん前で、黒子のある口元が妖艶に蠢いた。
 声が、響く。
「私のこと、どう思ってる?」
 口の中で空気を擦らせたような囁き、それに似つかわしくない真剣な眼差しが私を貫く。目の前に差し出された黒に沈む瞳。至近で見つめるそこには何の感情も映っておらず、恐怖すら覚える美しさを湛えている。
 お酒は入ってないのに、頬が熱くなるし、胸が息苦しさを覚える。初めて会ったときから私はあずさに魅了されたままで、この魅了を解く手段はまだ私の手元には無い。この瞳に至近距離から見つめられて、はぐらかすことなどできるわけもなかった。
 電気信号とは別の何かが私の身体を這い、勝手に動いた喉が言葉を運んだ。何度も何度もこれまで繰り返し告げてきた言葉。同じ言葉だけど、それに載っている感情は言うたびにどんどん大きくなっている気がする。
「大好きだよ」
 偽らざる、だ。
 あずさがほんの少し息を吐く。ゆっくりと唇を笑みの形に変えて、
「ありがと」
 触れた柔らかい唇には、チョコレートの味が残っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?