不尽の高嶺

#Alice

 私が目を覚ます時、特に合図のようなものは無い。
 光も、音も、感触の刺激も無く、ただ意識を取り戻す。
 起きてまず一番、覚醒する前のまどろみを享受する。調整された室温とシーツの肌触りが心地よく、それに集中しながら頭に掛かった靄が晴れていくのを楽しむ。恍惚に、自然と鼻が鳴る。
「ふふ」
 自分の吐息とシーツの衣擦れを合図に、耳が覚醒してゆく。空気の震えは、ベッド脇で稼働する加湿器の小さなモーター音だけ。それ以外、物音一つ聞こえない寝室は私の根城だ。
 薄く、目を開く。日差しが入らないよう厚いカーテンを閉め切った部屋。常夜灯の明かりに包まれて薄暗いオレンジに照らされた室内に、人の気配は無い。
 シーツを掴み直して頭の上まで持ち上げる。そのまま腕を伸ばして、横向きに寝たまま軽く伸びをした。
「んんー、あぁ~っ」
 猫みたいな声が出た。ん、猫。
 頭をシーツから抜いて枕元にある電灯のリモコンを操作する。反応の悪いボタンの端を強く押し込むと、常夜灯が消えて数瞬の後、蛍光灯が白い光で室内を埋めた。
 上半身を起こし、顔を上げる。光の刺激と僅かな頭痛に目を細めた。
 視線の先で壁に掛けられた絵が目に入り、心に火が灯るのを感じる。
 白い下地に、青一色で描かれた風景画。富士山、空、海。全てを青の濃淡だけで表現したそれに、今日も心を動かされる。
 不尽の高嶺。
 尽きることなき、絵画への原動力。
「よっし」
 今日もまた、筆を取るとしよう。

#Kokoro

 わたしは、絵を書くのが好きだ。
 お父さんは、その「好き」はお母さんの影響だけじゃないよっていつも話してくれる。お母さんは私が生まれてすぐの頃、「絵描きの娘だから絵描きにする、なんてことはあっちゃいけない」って思っていたらしく、むしろ絵以外の芸術をたくさん与えてくれたらしい。
 音楽とか演劇のような芸術、スポーツやゲームといった娯楽。そういうものにたくさん触れさせて、やりたいことがあったらなんでもやらせてやろう。そういう考えで色んな所に連れて行ってくれた。でも、そういう記憶はわたしの中にはあんまり残っていなくて。
 わたしの中にある一番古い記憶は、わたしが初めて絵を描いたときにお母さんがとても喜んだ、というものだ。
 小さな画用紙に青いクレヨンで書いた小さな絵を見て、お母さんはとても喜んで、強く抱きしめてくれた。わたしはそれがとても嬉しくて、今でも、その嬉しさや抱きしめられた感覚を覚えている気がする。
 わたしを抱きかかえたまま、涙をぼろぼろ流して、顔を大きくゆがめて、大きな声でわーわー叫んでてさ、僕は嬉しさよりも笑いが出ちゃったよって、お父さんはいつも笑いながら話してくれた。
 今のわたしと比べても技術的にはもちろん未熟だったと思うし、深い意匠のあったわけでもないその絵のどこにお母さんが惹かれたのかは未だに理解できてないけれど、それでも、やっぱりわたしが今でも絵を書いているのはその出来事があったからだ。
 それからのわたしは、絵や画材に囲まれて暮らした。お母さんが天才と呼ばれているのはもっと小さい頃から既に知っていたし、一緒にいるお父さんも絵に理解があって、家にあるお母さんのアトリエにはいつも絵の具の匂いが立ち込めていた。たまに換気するのは、わたしとお父さんの仕事だった。
 個展が開かれれば毎度お父さんが連れて行ってくれたし、お母さんに会いに来る人はみんな絵が描ける人だった。お母さんが楽しそうにしているのはだいたい絵の話をしているときで、それ以上に嬉しそうにしているのは絵を描いているときかお父さんといるときくらいだった。
 知識も、技術も、感性も、道具も、経験も十分に与えられて、この家に生まれて8年、学ぶのに困ったことはなかった。
 だからこそ、理解してしまうことがある。
 わたしには、お母さんみたいな才能は無いのだと。

#Ryunosuke

 休日の朝。起き出してリビングに行くと、妻と、ついこの間8歳になったばかりの娘が取っ組み合いの喧嘩をしていた。
 新聞紙とリモコンの散乱したテーブルを避けるようにどたんばたんと転げまわり、上になり下になりを繰り返す二人は揃って大粒の涙を零していた。妻のアリスの方は鼻水と涙で顔が物凄いことに……いや、細かく説明するのは女性としての尊厳に関わるので差し控えることにしよう。
 肩を握り、髪を掴み、互いの額をぶつけ合って大声で罵り合っている様は、この二人を、天才画家として知られる夏目アリスと、その娘であり8歳で既にその才能の片鱗を示し始めている夏目こころの両名であると知っている人間が見れば、落胆もやむなしといった様相である。
 それを夫として、親として、何度となく見て来た僕は、一つため息を吐き、
「とりあえず、やめな」
 二人に、声と一緒にバケツ一杯の水を掛けてやった。

「で、何があったの?」
「……」
 親子3人でお風呂に入る機会というものを普通の家庭が持っているかは良く知らないけれど、こと夏目家においては割と頻繁に起きる出来事である。
 元々は僕とアリスが二人でいた時分に、悩み事や相談事とかがあった場合に銭湯の家族湯で話し合っていたのがそのまま家族になった後も続いているというところなのだけれど、そういう意図もあって夏目家の風呂場は大きめに作られていた。
 顔面の様相が酷かったアリスは、湯舟に浸かる前にシャワーを浴びている。というわけで、まずはこころから事情聴取だ。
 体温より少しだけ熱いお湯にじわじわ汗腺が開いていく。だんまりを決め込んだまま白く濁った湯面を見つめるこころの濡れた前髪から、雫が一つ落ちた。
「黙ったままじゃ……、まぁ判るけど」
「…………」
「全日本絵画大賞、ねぇ」
 雫が、もう一つ落ちた。
 全日本絵画大賞。その名の通り、全日本の絵描きが目標にする大きなコンクールだ。こころは、一年前からこの賞に向けて全力を尽くしていた。確か今日がその受賞者の発表の日で、掲載予定の新聞はさっきテーブルの上に広がっていた。
 見てはいないけど、まぁダメだったのだろう。
 そしてついこの間、こころは8歳の誕生日を迎えた。多分、それが引っかかっている。
「お母さん、すごいんだね」
 こころがぽつりと呟くのに合わせ、また雫が落ちる。
「うん。すごいよ、お母さんは」
 全日本絵画大賞。その最高位である文部科学大臣賞を、夏目アリスはわずか7歳で受賞していたのだ。
 いつの頃からか、こころは自分の年齢を指折り数えるようになっていた。コンクールに応募するたびに、何歳と、何日と。母親と同じ結果を追いかけ、母親に追いつき、追い越せるように。
 それは一種の呪いだ。天才の親の元に生まれてしまったが故の、不幸な生い立ちだ。
 こころに、絵の才能が全く無いわけではない。稀代の天才であるアリスに並ばずとも、並みの子供には辿り付けないような技術を既に持っている。それでも、自らが理想に及ばないという事実は、突き刺さるのだ。
「無理よ」
 風呂場が広いと言っても、声は響く。顔を洗い終えたアリスが歩いてきて、
「そんなこと考えて泣いてるうちは」
 そう言って勢い良く、半ば飛び込むように僕の隣に座る。湯面が大きく波打って、僕とこころの顔を濡らした。
 それでも顔を上げないままのこころに、アリスは僕越しに声を掛ける。
「正直ね。こころが私を追いかけてるって判った時、嬉しくは思ったけど、でもそれは違うなとも思ったの」
 その言葉は、優しくはない。
 それは、僕たち家族の取り決めの一つだ。
 風呂場では、嘘を吐かない。
「私は、誰も追いかけたことないもの」
 絵を志したものならば誰もが思う。
 夏目アリスは天才である。
「苦労とかしたことない。努力はしたけどね。努力すればするだけ絵は上達したし、上達すればするだけ周りは評価してくれた。描きたいものを描けば、周りがそれを選んでくれた。他はからっきしだけど、こと絵に関しては頑張っても結果が出ないなんてことはなかったから、誰かを目標にするとか、それを超えてやろうって気持ちは、私には判らない」
 無神経なセリフも、本音で話しているからこそ出てくるものだ。それが今のこころに必要だと判ってるからアリスは喋っているし、僕も止めない。
 アリスは天才で、世間で言われるように無神経かもしれない。傍から見ている僕だって、少なくとも不器用だなとは思う。でも、
「でも、」
 母親として、ちゃんと優しい。
「努力して結果が出なくても、それでも続けたいって思ってるのは凄いことだと思うのよね。それは、私が持ってる好きって気持ちより、ずっとずっと強い。そんなに好きなんだったら、ちゃんと最後まで向き合ってあげなさい」
 こころは、その声を聞いてもまだ顔を上げない。滴る雫が多くなっているようにも見えて、僕は濡れた手で頭を撫でてやる。
「私みたいになりたいんだったら、私を目指すのはやめなさい。こころが持ってる好きにちゃんと向き合って、こころが描きたいものを描きなさい」
 そんな風に掛ける声は、母親としての優しさよりも、
「そしたら、もっと上手くなるわ」
 ともに高嶺を目指すライバルとしての激励に聞こえた。8歳の娘に、不甲斐なさで他人に当たるなというのも酷な話だけれど、アリスは年齢で区別をしない。それが自分の娘であろうと。

「で、こころは判ったけど、アリスちゃんはなんで泣いてたの」
 もう片方にも聞いてみた。アリスはわずかに鼻を啜り、目に涙を湛えながら、
「猫が、上手く描けないのよ」
 と呟く。
 あぁ、なるほど。
 こころは、自分の理想たるアリスが、猫一匹満足に描けないと鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしているのを見て、煽られていると勘違いした。
 だが、これは実際に煽りでもなんでもなく、本気で言っている。
 自分が誰かの理想になっていようと関係ない。自分は、自分の理想にまだ届いていない。
 だから、夏目アリスは天才なのだ。

#Alice

 風呂上り、ドライヤーで髪を乾かして貰いながらリビングに散乱していた新聞紙を纏める。
「そういえば龍ちゃん。結果見た?」
「何の?」
「絵画大賞」
「あー、いや。でも、だめだったんじゃないの」
 まぁ、こころの反応を考えるとそう思うかもしれない。それを知れば私の呆れも少しは伝わるだろうと思って、口にする。
「都知事賞なのよ」
「は?」
「都知事賞」
 全日本絵画大賞において、上から3番目に表彰される賞。それを8歳で受賞して、あの荒れ様なのだ。
 そりゃあ私は、7歳(と9か月)で文部科学大臣賞ですけど?
 それでもねぇ。
「どれだけ負けず嫌いなの」
「それよねー」
 龍之介は、苦笑いの後、
「間違いなく、アリスちゃんの子供だ」
 そんな風に屈託なく笑うのだった。

#Kokoro

「こころさ、私の部屋に一枚だけ絵が飾ってあるの、知ってる?
 じゃあ、あれが誰の作品なのか、知ってる?
 あれね、お父さんが描いた絵なの。
 知らなかったでしょ。お父さん、自分で絵が描けるとか全然言わないもんね。
 でまぁ、見ての通りちゃんと描けるんだけど、コンクールとかに応募したのはあれが最初で最後なんだって。
 それで、私も、それと同じコンクールに応募してたんだけど、大賞を受賞できなかった。
 わかる? 私ね、お父さんにだけ、負けたことあるのよ。
 だから、誰も追いかけたことないってのは、実は嘘。ほんのちょっとだけね。
 私は、世界に好かれる才能を持ってる。
 私が描く絵は、世界の皆に好きになって貰えて、それはきっとすごいことで、色んな人にも評価されてきた。
 多分、こころも。それを半分くらいもってる。
 お父さんもね、絵の才能はあるんだよ。
 でもそれは、私みたいに世界に好かれるような才能じゃなかったの。
 比較したときに、お父さんより上手い絵を描く人はたくさんいた。お父さんより、世界に好かれる絵を描ける人はたくさんいた。私だってその一人。
 でもね「夏目アリスが好きになる絵」を描く才能は、宮野龍之介しか持ってなかったの。
 宮野って言うんだよ、お父さんの苗字。
 そして多分、こころは、それも半分くらいもってる。
 こころがね、最初に描いた絵を見た時、お父さんの絵を初めてみた時と同じように、感動したの。
 ほんのちょっとだけどね。でもその時、間違いないって思ったの。ああ、やっぱりこの子、宮野龍之介の子供なんだって」
 そんな風に喋るお母さんは、やっぱりとっても嬉しそうで。
 わたしは、心を動かされた。

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