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風景と私(5)過去の投影

私は映画が好きだが、日本映画をほとんど観ない。ポスター画像を見ただけで、あ、日本映画だ、と思う。題名の選び方、人物を切り取る構図、キャッチコピー。いかにも現代日本映画である。ありていに言えば、孤独、感傷、再生。街並み、海岸、夕暮れ。またはそれらの反作用。

世界的に評価の高い現代日本映画でも、観るとげんなりする。私が映画に求めるのは、否応なく私に染みついたモノゴトからちゃんと切り離された別世界なのだろう。文学も同様で、現代日本文学を読もうという気にならない。

アンドレイ・タルコフスキーが撮ったSF映画「惑星ソラリス」(1972年)に、脈略もなく首都高を走る車載カメラの映像が挿入される。くねるカーブ、複雑なジャンクション、トンネルへの侵入と脱出、過ぎ行くビルの窓。日本の風景であるにもかかわらず、私はその美しさに魅了される。ソ連映画のなかの日本だからなのだろうか。

今までに何か所に住んだのか尋ねられ、カウントすると住民票を移しただけでも10都道府県に及んだ(海外を除く)。道理で履歴書の行が足りないわけだ。訪れたことがないところを尋ねられ、東から西に潰していくと秋田と富山だけが残った。それでも、両県とも寝台列車で通過している。

秋田と富山にはいつか行きたいと思う。秋田なら白神のブナ林、マタギの阿仁村、富山なら立山連峰。一方で、行かなくてもいいかとも思う。秋田も富山もニッポンという金太郎飴の一欠ひとかけである。全国各地に住んでみて、何処が良くて何処が良くないといったことは大差ない。どこもニッポンである。

あるとき気づいた。風景は過去の投影ではなかったかと。風景が私の網膜に映り、私が受容する。そうではない。私が風景を投影しているのだと。

車を運転している。日没時、台所の曇りガラスに棚の鍋やフライパンの影が映る。私は目をそむける。なぜか。見たくない理由があるからだろう。閉ざされた女性たち、封建的な地域社会。

風景は過去なのではないか。
過去は自分なのではないか。

風景が私を蝕むのではなく、私が風景を蝕むのではないか。

「海外」に行くとあれほどまでに解放されるのは、過去と切り離されているからではないか。

風景は、input ではなくoutput だった。そう、プルサーマルだ。使用済み核風景が再処理工場に回収されて新たな風景として再利用され、私の網膜に映る。それでも、映しているのは私自身なのだ。プルサーマルは私の体内にある。

広い広い、海に行こう。
風景は過去の投影だと認め、赦そう。

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