見出し画像

男はナイフを持って車を降りた

仕事を終えた私は、車で帰宅の途にあった。夜の10時頃だっただろうか。橋を渡り、踏切を渡り、商店街に入り、県道を右折する。人口5万を超えるものの面積がだだっ広く、田畑と山野ばかりの地においてそこは街の中心部だった。

線路沿いの県道を北に走る。片道1車線。前を行く車がやけに遅く、時速20キロぐらいしか出ていない。私は右ウィンカーを出して追い越そうとした。すると、前の車は急ハンドルと急ブレーキで進路を阻む。車線に戻り、私が減速すると前も減速する。左右に振ると、前も左右に振る。

私は車を左の路肩に寄せて停車した。前の車は道の真ん中で停車している。距離は5mぐらいある。夜も深まり、車の往来は多くないものの、中心地の県道なのでそれなりには走っている。

エンジンを切り、ドアを開け、私は外に出て、停まっている車へとゆっくり歩いた。夏の終わりのぬるい外気が頬に触れた。車は相当古いアルトで、運転者のシルエットが助手席のダッシュボードを探っている。構わず私は近づいていく。

男はドアを開けっぱなしにしたまま外に飛び出した。凄まじい怒号を上げて私に近づく。背は低く、肉体労働者の格好をしている。私も肉体労働者だった。歳は私と変わらない。右手には刃を出したカッターナイフが握られている。グリップが黄色く太いカッターナイフ。

ふたりは走行車線の真ん中で対峙した。商店はどこも営業を終え、点在する街灯だけが弱々しく道を照らす。交番は数百メートル後方だった。

眼をかっと見開き、まくしたてる男。クスリをやっている。私はそう感じた。なぜ、走行を妨害するのか。努めて冷静に私は訊いたが、男は接近して怒鳴り散らすばかりだった。

よく聞くと、ハイビームで後方を走ったことに激怒しており、挑発と受け取っているようだった。確かに、県道に入ってからヘッドライトがハイビームになっていることに気付き、ローに戻していた。私は謝り、故意ではないと説明した。

男はまったく納得しなかった。嫌がらせであり、挑発だと詰め寄り、恫喝する。私は繰り返し説明し、謝る。男の右手に握られたカッターナイフの刃先が私の腹にチクリと触れた。たかぶりを覚えた私は、被っているキャップのつばで男の頭をコツンと突いた。ぎらついた10センチ先のかおが言う。やるぞ。

私は勤め先の軽ワゴンに乗っていたので、ボディに社名ステッカーが貼られている。どうせ身元は割れる。なるようにしかならない。睨み合うふたりは県道の片側を封鎖した。目線をそらさなかったので、どれほどの渋滞を引き起こしたのかはわからない。止めに入る者はいない。刃先が腹を突き、キャップが頭を突く。

街の中心、県道の真ん中で人を刺す奴はなかなかいない。しかし、クスリをやっていれば別である。謝っても済まないということは、想像もつかない結末に引きずり込まれるかもしれなかった。

長い時間が過ぎた。男の怒号は呟きに変わった。そしてこう言った。悪かったな。踵を返し、背を向け、アルトに乗り込み、男はアクセルを踏んで走り去った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?