第十回 amazarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです

今回は「ナガルナガル」の歌詞を解説していきたいと思います。
この曲はイントロの暗さから一転、歌詞の内容はとても明るく歌われています。そしてこの曲も哲学的が満載で、随所に要素を当てはめて考えていくとより良い理解が得られるのではないかと思います。
早速解説してきます。

まずこの曲の根底にある考え方は第一回でも解説した「実存」という考え方です。
実存とは、現実存在の略で、主に19世紀に流行った思想です。
現実存在というと少しわかりにくいですが、つまり意味するところは「今ここ」にいる私たちの存在ということなのです。
ここで勘違いされがちなのですが、実存とは「今ここ」に存在していることそのものなので、性別、容姿、貧富に挙げられる社会的有用性に左右されないということなのです。
この思想はとても分かりやすく表れています。そしてサルトルは、人間においてのみ社会的有用性よりこの実存が優先されるとしました。
つまりこの曲では、お金や物の価値といった時代によって流れていくもにとらわれずに「今ここ」に生きることが大事であるを歌われているわけです。

また冒頭で歌われている「悲しいことが起こりました もう知らないふりはできないよ」では近代における神の死による世界の広がりとともに訪れる不安の概念が歌われていて、最後の「痛みも全部なくなって〜そんな毎日なんてクソ食らえ」にてこの神の死は肯定されています。
中世では神の威光が全世界に轟いていて、それを生きる指針にしていればまず間違えはありませんでした。その指針が合理的かどうかは問わず。しかしそんな盲目的な生活のある種の平穏は「クソ食らえ」であると歌われています。

そして、サビの最後で歌われている「昨日報われなかった願いも捨てないでよ」「昨日ゴミだった君の心も捨てないでよ」「昨日笑われた君の本気も捨てないでよ」では、過去の自分について歌われています。
ここで疑問の思う方もいるかもしれません。「実存」は「今ここ」だから、過去に話は関係ないんじゃないかと。しかしここで見たいのがハイデガーの思想です。ハイデガーは「存在」とは過去から未来へと渡っていく過渡期的な概念であるとしました。また、「今」というのは観念にしかすぎず、どこまで行っても過去から来た未来でしかないという話もあります。
具体的には、我々が事物を認識するときは全て神経を介します。なので我々が「今」と認識した物でさえ多少のずれ、何ミリ秒というわずかなずれですが、それを持って脳が認識します。つまり本当の「今」という物は存在しないのです。
つまり「今」という本質は過去でしかないのです。

いかがでしたでしょうか。このようにナガルナガルはかなり実存主義、もっというとハイデガー的な実存主義を汲んでいることがわかります。
私たちもきっと本質は社会的有用性なんかではなくて、もっとほかの部分にあるのだと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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