第六回 amazarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです

今回解説するのは「それを言葉という」です。
前回同様、この曲もリクエスト頂いてから初めて聞いたのですが、詩的な表現の中に哲学要素がふんだんに散りばめられていて聞いていてとても楽しかったです。
今回は哲学者ごとに歌詞を見ていきたいと思います。

ソシュール

今回紹介したい哲学者の中でも特に紹介したいのが彼です。
彼は言語学、記号学、哲学の学者であり、それら全てに多大な影響を与えました。
本当は彼が何を行ったのか事細かに説明したいのですが、それをするとあまりに長くなってしまうため歌詞に則して解説したいと思います。
彼はそれまで常識とされていたキリスト教的言語観である、「まず前提として牛っぽい奴がいて、それに我々が牛と名付けた」というものをひっくり返しました。結論から言うとソシュールは「客観的秩序があって名前が付けられるではなく、名前が客観的秩序を作り出す」と言ったのです。何言ってるかよく分かりませんね。
具体的な説明として僕が発見した例を上げたいのですが、英語の仮定法という文法において、直説法と仮定法が明確に区別されますよね。しかし日本語ではこの明確な区別は助動詞によっては行われないのです。
「もし私が鳥なら、彼の元に飛んでいくだろう」
「もし試験に受かったら、親は喜ぶだろう」
この二つの文章は、英語においては実現可能かという点で文章の書き方が全く異なりますが、日本語では「もし〜なら、〜だろう」という書き方で変わりまりません。しかし我々日本人はそれを無意識に区別しているわけです。
これが言葉(仮定法、直説法という概念)が秩序を作るという事なのです。
この事によってソシュールは絶対的な個を否定しました。客観的な秩序が前提なのではなく、言葉によって作られていたのですから、私たち個人という客観的なものも、他人との相関関係によって秩序付けられているとなるのも頷けます。
つまりこれは「全ての人に忘れられる事が終わる事」で表されています。
またソシュールは、言葉の性質としてシニフィエ(意味するもの)、シニフィアン(意味されるもの)という二項を上げました。これの意味する所とは、意味するもの、つまりその言葉が指す意味そのものと、意味されるもの、つまりその言葉自体ということです。
具体的には、馬という言葉のシニフィエは哺乳類で四足歩行で蹄があって、、というものであり、シニフィアンは「馬」という言葉自体を指す言葉として定義しました。
そしてソシュールは人と言葉を介して話す時、その言葉のシニフィアンを交換しあっているだけであり、シニフィエはそれに含まれないとしたのです。
つまり、自分が思う「馬」という言葉に抱くシニフィエと他人が抱く「馬」という言葉に抱くシニフィエは完璧に一致することはないと言いました。これの意味するところとはつまり私と他者は究極的な意味で分かり合うことは出来ない、ということなんです。
そうなってくると1つ問題が浮上します。
他者と自分は究極的に分かり合えないのだったら会話や伝え合う意味はあるのだろうか?という疑問が浮上してきます。今何となく共感してるこれも実は嘘なのかもしれないのだから。
しかしここで秋田ひろむはひとつの答えを出します。つまり「君は伝える事諦めてはだめだ、それを届けて」「僕は伝える事蔑んだりしない、それを届けて」と声高らかに歌い上げるのです。

バタイユ

次に紹介するのはバタイユです。彼は実存の系列の哲学者であり、僕はキルケゴール的実存の流れの答えだと勝手に思っているのですが、とにかくお上品で素晴らしい哲学者です。
彼の思想はそれまでの実存の流れを個人から社会へと拡張するものでした。
彼は「夢、美、ロマン」という3要素を「エロス性」というもので定義して、人の生きる意味とはこのエロス性を消費して死を乗り越える事だと言いました。
時に人は幸せの絶頂にいる時に「今死んじゃってもいいかもな」なんて思う時があると思うのです。僕ははま寿司の炙りサーモンチーズを初めて食べたとき本気で思いました。是非1回食べて見て欲しいです。
話を戻すと、これらがバタイユの示した生きる意味な訳ですが、同時にバタイユは、大体の人間が青年期の時これらのエロス性の前で挫折してしまうとも言いました。それはそうですよね、いつまでも夢を追いかけていられるのはほんのひと握りです。そういう人たちの前に現れる最後の死を乗り越える契機が「社会」という制度を信じる心なのです。
夢ややりたいこと、情熱が何も無い人ほど、何となく大学に進んでなんとなく就職して社会的に良い事とされていることをやり続けますよね、これがエロス性に生きられなかった人たちの最後の砦のなのです。しかし、これはその社会が素晴らしいものであるときは悪くない生き方なのかなとも思えますが、その社会を信じることが出来なくなった時、人は所謂「無敵の人」となるわけです。この世の中に信じたいものも何も無くなったら、全部がどうでも良くなってしまうのも分かる気がします。
つまりこれが「期待できない時代に期待されなかった僕らは「あいつはもう終わりだ」と言われながら屈折した尊厳はまるで青く尖るナイフだ」なわけです。
しかしこの曲はこのままでは終わりません。
amazarashiの曲には「ファストフード店」という単語がたびたび出てきます。これを物質主義のメタファーであると考えると、「ファストフード店で頭を抱えながら繰り返す、終わってたまるか」という部分で、物質主義に囲まれた現代においても諦めていない様子と捉えることが出来ます。

いかがだったでしょうか?本当はもっと解説したい箇所があるのですが、哲学家の背景と前提知識から説明するとまた長くなってしまうので、今回はここで切り上げたいと思います。次回は「アノミー」を解説したいと思います。ちょっと時間かかるかも。

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