第五回 amazarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです

今回解説する曲は「デスゲーム」です。
この曲もある方からリクエストいただいてから初めて聞いたのですが、詩的表現が素晴らしすぎてすぐに大好きな曲になりました。
そんな「デスゲーム」ですが、今回は「虚無病」という曲と比較して評論したいと思います。初の試みなためお手柔らかにお願いします🙇‍♂️

「デスゲーム」、「虚無病」どちらも歌われているテーマは同じで、それは現代における物質主義の侵食と、ニヒリズムの台頭です。
しかしこの2曲の間には明確な違いもあります。それはその物質主義とニヒリズムへの曲内において提示される答えです。
「虚無病」では徹底的にニヒリズムが歌われ、曲の最後まで世界観は殺伐としています。この曲で提示される答えは、「逆上して列をなせレベルエール」「愛された事ないから愛は知らない」とあるように、愛を知らぬものの社会への反逆です。実際目下の現実ではこれが1番現実的であり、理性的と考えれます。実存主義では、究極的に愛に生きることが出来れば個人の問題は社会に還元されないとしましたが、誰しもが愛を生きられる訳では無いですよね。
一方「デスゲーム」では全く違った答えが提示されます。
この曲のイントロはライアーゲームを想起させるようなオルガンから始まり、ニヒリスティックな
世界観や、ルサンチマンによる不埒な世界への恨みが語られます。また「人殺しの道具が人一人の価値に勝る」とあるように、物質主義の台頭も歌われていますね。
しかし、この曲が提示するメッセージは「一滴の涙が海に勝るとは知らなかった」!!!ここに全て詰まっています。つまり、現代では物質主義が台頭しているが、実の所一滴の涙(人間性)は海(この世に飽和する物質)に勝るはずだ、ということなんです。最初これを聞いた時凄すぎて椅子から転げ落ちてしまいました。実存をこんな素晴らしい詩的表現を伴って表現するなんて秋田ひろむ、凄すぎます。
この他にも「冷笑の365日の向こうに何がある」「悲観主義では逃げ出せない」などから、ニヒリズムに没頭しているだけでは何も解決せず、依然苦しいままでである事が、「1番正しいやつを疑え、まず自分自身を疑え」という所からはニーチェが言った懐疑主義の徹底がニヒリズム克服に繋がる、といった要素が見いだせます。
つまり「デスゲーム」では現実を受け入れて、愛に生きよといったかなり前向きなメッセージが受け取れます。ここで言う愛は「情熱、夢」といったものなのでそう解釈していただけると嬉しいです。

まとめ

ここまでの話をまとめると「虚無病」では愛を知らぬものたち、社会に対して反抗せよというメッセージが読み取られ、かなり合理的で現実主義な曲な事が分かります。しかし「デスゲーム」では、ニヒリズムやルサンチマンでは何も解決せず、大事なのは現実や愛に生きる事だというメッセージが受け取れます。実際人間は愛に生きられるならそれに越したことはないのですから、理想論が歌われていることが分かりますね。
いかがだったでしょうか?2つの曲は似ているようで根底では相反したメッセージを孕んでいることがお分かり頂けたかと思います。皆さんはどちらの曲の方が好きですか?是非教えて欲しいです。
次回は「それを言葉という」の解説をしたいと思っているのですが、言語論の勉強が如何せん追いついてないため、少し間が空くことをご了承ください。ここまで読んで頂きありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?