第八回 amazarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです

今回解説するのは世界の解像度です。
この曲は主に現象学における認識論、ひいては人間にとっての社会という観念の意味や他者論にも関わってきます。
早速見ていきましょう。

まずこの曲のタイトルにもある「世界の解像度」とはどういった物であるのか。
哲学においてそれは「世界像」と言い表されるような概念であると私は解釈しました。「世界像」とは端的に言ってしまえば個々人の感性のことです。認識する内容と言ってもいいかもしれません。
ここでいう認識の内容とは、カラスの色やりんごの形など物質的なものにとどまらず、人生の意味や幸福とはなんであるかといった形而上学的なものについての考えに関しても世界像と言えます。
「世界の解像度」の歌詞においてこの「世界像」という概念は、フッサールの言う確信の構造の要素が多く含まれてます。
「世界像」に関しての解説を続けたいのですが、今回は歌われる歌詞に沿って解説していきたいので後ほど詳しく説明します。

まず歌詞冒頭、「俯瞰で見れば世の断りのような色彩、当事者となり凝視すれば粗悪な落書き」という歌詞。これはもう完全に哲学の興隆の流れを表しています。
哲学史では「誰かが何かの命題を提示する→それを誰かが否定する」ということを繰り返してきました。そしていつだって提示される命題は、共同体における究極の共通項を探るようなもので、言ってしまえば「俯瞰で見れば世の理のような色彩」を、問題を個人に還元して考えることでことごとく否定してきました。つまり「当事者となり凝視すれば粗悪な落書き」な訳なんです。
哲学史を一節で表せと言われたら僕はこれを提示すると思います。

この曲の最初のサビはかなり暗く、自分の才能の無さや、日常生活の中で埋もれていく様子を嘆いています。
これはバタイユのいう死の打ち消し行動であり、その中では人は真の幸福を掴み取ることはできないとしました。
ではどうすれば幸せを掴めるのか。
バタイユ曰く、死の乗り越えによってなされると説きました。
つまり「残す生きていた証拠」なんですよね。
生きていた証拠を死後の世界に残すことで、自分の死を乗り越えるということなんですね。

またBメロでは、個人にとって他者、社会とはどのような意味を持つのかについて歌われています。
フッサールの確信の構造では、他者とは自分の世界像を確固たるものにするための別の視線であるとされています。
特に重要なのは、間主観の構造という概念によって、人間一人では世界像というものは存在できず、他者が存在して初めて存在できるものであるとした点です。
つまり「うんざりして耳を塞ぐ」ことをすれば、ライトが断線され、自分の認識は暗闇の中に放り出されてしまいます。
他者とは敵ではなく自分の手元も照らす光であると歌われているんですね。
良すぎますね。
そして二番目のサビにある「個々の視点再縫合、新しい世界の解像度」という部分では、世界像の編み直しの概念が見出せます。
世界像の編み直しとは、とどのつまり自分の認識を改めることなのですが、ここで重要なのが行われるタイミングなのです。
フッサールは、世界像の編み直しが行われるのは他者の存在がいて初めて行われるものであるとしました。自分一人なら自分の考えを疑う必要性もないので、当然と言えば当然ですね。
これはラスサビでも歌われていて「思索の倍音と、響きあう世界の解像度」というのも、自分と他者の施策によって織りなされる倍音によって共鳴しあう世界像が描写されています。

いかがだったでしょうか、アルバムが進むにつれ近代からポストモダン、そして現代思想へと推移していく様が見て取れるのですが、僕はそろそろ現代思想を貫通して新たな思想を作り出すんじゃないかとワクワクしています。
次回は「海洋生命」です。折れて他の曲にするかもしれません。


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