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その魂捨てるなら勝手にさせて貰います

 シザールは目の前の石をじっと見つめて居た。どれ程そうしているのか自分でも分からない程、そうしていた。
 大人の腰ほどの位置まである、全体的に丸味を帯びた白い石だ。所々に小さなガラス質の黒点が見える、何の変哲もない石だ。路傍にぽんとある、それだけの石。ただ、そこにある、そのままにある、モノ。
 通りすがりだった。けれどその姿を見た途端、そこから動けなくなっていた。むしろそれこそが尊いのではないかと。
 自分は…自分達人間は、なんと面倒な存在であることか。ただ有る事があたわず、感情に振り回されて。この、息の仕方も思い出せなくなるような憤りと怒りと悲しみと…。
「……ここに、置いて行っても良いだろうか……」
 問とも独り言ともつかないそれは、深い絶望を滲ませた呻き声だった。
『ああ?ふざけてんじゃねーぞ!』
 頭に響き渡るほどの大声に、シザールは文字通り飛び上がった。
 慌てて見渡すも、先程と変わらず誰も居ない路傍である。
『目の前だっての。石だよ石!』
「え……」
 茫然と見やるシザールの目の前で、白い石の周りの空間が揺らめき、ふわりと若い男が姿を現した。
『置いてって良いかだあ?駄目に決まってんだろ!自分のケツは自分でふけ!オレはゴミ箱じゃねーんだよ!』
 ぽかんと口を開けて突っ立ったままのシザールに、マシンガントークで男は言い募る。
『こっちが石だと思ってふざけた事言ってんじゃねーぞ!お前自分で何言ってんのか分かってねーだろ?分かってねーんだよな?こーれだから人間はバカだってんだよ!』
「……どちら様?」
『お前話聞いてたか?石だって言ってんだろ!今!お前が!お前の一部を置いていっていいかって!オレに言ったんだろーがよ!』
 人間でないのは分かる。何せ向こう側が透けている。そして浮いている。しかし、石?
「精霊……?」
 いや、万物に魂は宿ると言うけれど、精霊って見えるものだったろうか。しかも随分と口が悪い。ぐるぐると思考が迷走して戻って来れないシザールの呟きにふん、と男は笑って見せる。
『良いか?お前がどんな状態なのかは知った事じゃねえ。置いてくって事はな、自分の一部を捨てて行くって事なんだよ。以後お前の魂は永遠に欠けたまんまだ。』
 あんだすたーん?と男…精霊は指を突き付けて来る。
「か、欠けるのか」
 それは物凄くマズイ気がする。自分の一部が永遠に欠けたまま。いや、ダメだろう。私はこの苦しさを捨て去ってしまいたかっただけで、魂の一部を欠けさせたい訳ではない。
『おうよ。今捨てちまえば苦しさから目を逸らすことは出来るんだろうよ。だがな、何年後か、次の人生になるかは知らんが、お前がこの件に向き合おうとした時、お前の中にはそれはもう残ってない。捨てちまったんだからな。その時になって慌てて探したって無理な話だ。
なぜって?目の前に捨てられた他人の一部なんぞゴミだろーが。ゴミ!迷惑なんだよ。お前が捨てたら即座に握りつぶす。綺麗さっぱり滅だ。所有権を放棄されたカケラなんぞ誰にどうされたって文句は言えねえんだからな。』
 それで良いなら捨てて行きな。即握りつぶしてやるからよ。
 シザールの目の前で右手をゆっくりひねる様に握って見せる精霊の悪い笑顔に、自分が置いていった一部が握りつぶされる幻影を見た。握りつぶされて、消滅して、自分の魂が欠けて…。背筋にざあっと寒気が走る。
「いや!いやいや!スマン!置いて行くのはやめる。うん。ほんとにスマンかった!気の迷いだった!」
 だから返してくれ!
 必死で言い募るシザールに、精霊は満足げに笑って見せた。
『そうかい、そりゃあ良かった。面倒事が無くなって嬉しいね。』
 精霊に、コクコクと頷いたのがその記憶の最後。それから、どうやって逃げ出したのか正直良く覚えていない。とにかくシザールは愛馬に慌てて跨って走らせて、次の街に駆け込んだのだった。


 あれから二十年が経った。中年の域に差し掛かったシザールは、あの時苦しみに負けて心の一部を捨ててしまわなくて本当に良かったと思う。石の精霊が自分をさとしてくれなければ(大変に乱暴な口調だったが)、分かり合えない父との軋轢あつれきを乗り越えた今は存在しなかったのだ。
 迷惑だ、と精霊は何度も言っていたが、シザールの捨てた魂を知らぬ顔で放置する事も本当は出来たのだろう。それをわざわざ罵詈雑言の形を取りながら、やめておけと、その理由から教えてくれたのだ。
 二十年ぶりに訪れたこの街で、ふとあの時の親切に感謝を述べたくなって、シザールは記憶を辿りながら駒を進めている。二十年も前の事、見つけられるか多少の不安はあったが、それでもあの場所を訪れてみたかった。
 幸い当時から整備されていた街道は、今もあまり変わっていない。街からの距離や道の様子から、確かこの辺り…と記憶を辿りながら駒を進め、当時と変わらぬままそこに有る石を見つけた。馬から降りて、石の前に立つ。
「やあ、覚えていてくれるだろうか。二十年前、ここに自分の一部を捨てようとしたバカな男なんだけど。」
 応えは返らない。
「あの時のお礼を言いたくてね。」
 返らないのは、応えるつもりがないからなのか、ここから抜け出てしまってそぞろ歩きでもしているからなのか、それとももう自分には見る事が出来ないからなのか。
 もっとも、精霊の姿を拝んだのは二十年前のあの一度だけで、それまでもそれからも見る事は無かったのだから、やはりあれはあの石の精霊がわざわざ姿を見せてくれていたのかもしれない。
「あの時、君がさとしてくれたお蔭で、私は今ここにこうして居られるよ。父とも和解出来た。…いや、違うな。お互いを認めることが出来る様になったんだ、この二十年で。
苦しかったさ、本当になんで捨ててしまわなかったんだろう、って思った時もあった。頭ごなしに否定され続けるのは息をするのも苦しくてね。でも自分の魂を欠けさせることの方が恐ろしいと思ったんだ。捨てたら二度と完全な自分には戻れない、なんて、とんでもないよね。」
 シザールは語り掛け続ける。
「だから、必死だったよ。父の考え方ややり方をあれ程に許せないのは何故なのか、自分の中の何がそう感じさせるのか。自分に問いかけて、そして初めて自分の価値観や思いや考え方を知った。
それは本当に自分が感じている物なのか、なんとなくそういう物だろうと常識だと思ってしまっているのか、そんな事まで問いかけたよ。そうして自分はどうやって生きて行くか、問いかけて歩き続けて…。気が付いたら、父と語り合えるようになっていたよ。
今でも彼の考え方を全面的に良しとは出来ないけれど、彼なりの信念に基づいているんだと、理解出来る様になった。父も、私の考え方を頭から否定せずに理解を示す様になってね。」
 改めてシザールは白い石を見やる。
「君のお蔭だよ。私はあの時苦しさに負けて自分を捨てなくて本当に良かった。捨てなかったから向き合えた。受け入れて、乗り越える事が出来た。本当に有難う。」
 白い石はただ、そこにある。あれは夢だったのだろうか、とも思う。いや、あんなに強烈な夢があろうはずもない。
 応えがないのは仕方がないか、とうっすらと微笑んだ耳に、一頭の蹄の音が聞こえて来た。
「将軍!」
 馬上から喚いているのは側近のタニオンだ。軍議を抜けて来てしまったからだろう、ただでさえ厳つい顏を盛大に赤くして、大層な剣幕だ。実際に戦をする訳でもないのだし、ひと段落付いたから良いかと思ったのだが、思っていたより時間が掛かってしまったのがまずかったか。
「やあ、タニオン。」
「やあ、じゃありませんよ!何考えてらっしゃるんですか!」
「この辺りは私が青年の悩みに打ちひしがれていた時に訪れた場所でね。懐かしくなってしまって。」
「はあ。軍議をほっぽらかして良い理由とは思えませんな。」
「いやあ…。この石がね」
『ストーップ!それ以上は禁止事項だ』
 頭に響き渡る声。思わず振り向いたシザールの目の前に、二十年前と変わらぬままの精霊が石に片肘を付いて立っていた。
『折角気持ち良く昼寝してたってのに、ホント人間は無粋だぜ』
 ニヤリと笑ってみせる精霊は、きっとシザールの話をずっと聞いていたのだろう。
 シザールは苦笑する。
「将軍?」
 訝しげに石と自分を交互に見るタニオンに、精霊が見えているのはどうやら自分だけなのだと理解する。
「その石がどうかしましたか。」
「いや、ここで昼寝すると良さそうだなあと思ってしまってね。」
 眉根を寄せるタニオンに軽くそう言って、シザールは馬に跨った。
「帰るか。」
「ったく!急いで下さいよ。皆様お冠で大変です。」
 顔をしかめるタニオンにすまんすまんと笑いながら、シザールは石の精霊を振り返る。
 ありがとう。
 目で伝えた言葉は届いただろうか。
『二度と来んじゃねーぞー』
 頭に響く面倒くさそうなその声に、シザールは今度こそ声を上げて笑った。


<FIN>

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