バビロン
夏の始めの、僅かに熱を孕んだ風が緩やかに過ぎて行く。
夕暮れの人々のざわめきをはらんで、日干し煉瓦の街路を通り抜けていく。
黄昏時の空は、ゆっくりと薄紫と橙に鮮やかに染まり始めていた。
「マーマ、お空が綺麗。」
指差す小さな手と向けられた屈託のない笑みに、マリは蕩ける様に微笑む。
「本当、とっても綺麗ね。」
湿り気のない、夏が始まる前の、まだそれほど熱を孕んでいない風。
黄昏始めた、色を複雑に染め変えて行く空。
小さな娘の小さな愛おしい手。
娘と自分を待っているだろう、優しい夫が二人を観止めて細まる眼差しを思い浮かべ。
マリの胸の奥から暖かさが溢れて来る。
娘の小さく暖かな手を握ったまま、マリは茜に染まり始めた空を見上げる。
ふうわりとマリの長い髪が風をはらんで揺れた。
うん。今日の夕餉は夫も娘も大好きなシチューにしよう。
「ミミー。お夕飯はシチューにしようか。」
きゃあ。
はしゃぐ娘にマリは笑みを深くする。
「ぱーぱ、ぱーぱにも」
小さな娘は弾けるようにマリの手を引き、家路を指さす。
「うん。パーパにもこのお空ね。」
見せて上げようね。
まだまだ空は明るい。夕闇に染まる前には家に帰りつけるだろう。
少し早く仕事から帰って来ているだろう夫は、今日も飛び込んで来た娘を抱き上げて、茜の空を指さす小さな手に導かれて。
何時もと同じに、マリを蕩ける様に見て目を細めるだろう。
夏の初めの風。
茜の空。
家路をたどる人々の穏やかなざわめき。
空気に混じり出す夕餉の香り。
マリはゆっくりと吐息をこぼす。
吟遊詩人の奏でる竪琴の音が、ひそやかに流れ出す。
夏の初めのたそがれに。
マリは夫と娘を、今日も微笑んで抱きしめる。
〈FIN〉
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