序章「暴風の海原」
第一節
旅立ちの朝。
乾いた白風がぼくの頬をやさしくなでた。
ぼくが生まれるずっと前の時代から、都を支える岩山とともに、ぼくらを見まもってくれている風だ。
これから三年はお別れをしなくちゃいけない風だ。
すこし寂しいな、とも思う。
でも、だからってお別れしないわけにはいかない。
ぼくは、ぼくの望みのために旅立つのだから。
ぼくらは遠い昔に滅んでしまった神々の末裔だと、じいやからは教えられている。
己の力により仲間をうしない、悲しみに暮れた、翼を持つ神さま。
その神さまが、まるで力なんて要らないというように、自らの羽の一枚一枚から命をつくり出したという。
神さまは翼をうしなった事でふかい眠りについたそうだが、そうやってつくり出された命を先祖代々つむぐ中には、時おり翼を持つものが現れた。
翼を持つものが一人生まれれば、その者が命をうしなうまでは翼持ちが生まれることはなく、命をうしなったその後に赤ん坊が生まれれば、また翼を授かるものが現れる。
そんな奇妙なことが続くものだから、翼を持つものは神さまの生まれかわりとして崇められていた。
ぼくの右肩には小さな翼が生えている。
純白の片翼である。片翼の翼持ちは ぼくが、もとい、ぼくらが史上初めてだそうだ。
ぼくらというのは、ぼくには年のすこし離れた兄がいた。
ぼくは幼子であったから、あまり鮮明に覚えているわけではないけれど、とにかく穏やかでやさしい兄であったことは間違いない。
兄の成人の折に、翼持ちの兄弟で肖像画をのこそうという話になったことがある。
長時間おとなしくしていることに飽きてぐずりかけたぼくの頭を、兄はもう少しの辛抱だよとやさしくなでてくれた。もう少しだけ耐えられるようにと、この国では貴重な飴菓子をくれ、時間がきたらめいっぱい遊んでくれるとも約束したし、実際に、約束通り日が暮れるまで遊んでくれた。
その時の肖像画に描かれている兄は、今のぼくとうりふたつだ。髪の分け目がちがうくらいで、顔立ちはまるっきり同じ。まるで双子のように似ている。
生まれた当初は片翼、しかも死をつかさどる黒い羽のみだったので、たいへんに不気味がられたそうだが、それでも翼を持つものは神の生まれかわりということなので、家族ともども神殿に迎えられたという。
本人のおだやかで裏表のない性格や、のちにぼくが生まれた事により、人々からの偏見は次第になくなっていったそうだが、十二年前におきた大嵐の夜、兄と母は失踪してしまった。
嵐に巻き込まれて飛ばされてしまったのだというものもあれば、嵐そのものの発生に関係があるのかもしれないと噂するものもあった。
でもぼくは知っている。
兄と母は、さらわれたのだ。
ぼくは確かに、あの夜みたのだ。
一人の人面鳥とおぼしき影と、鴉とも蜘蛛ともつかない、真っ黒で大きな怪物が、そのくちばしに二つの影をたずさえて飛び立つ様子を、物陰からがたがた震えながらみていたのだ。
あの時二人を助けようと飛び出すことができなかったぼくを、ぼくは無意識に責めつづけている。何ができたわけでもない。あの当時、ぼくはたったの四才だ。でも、ぼくは自分の身のかわいさに、二人を見捨ててしまったようなものだった。
辻風の季節になると、夢にみる。
あの時の風だけは、ぼくの心を凍えさせる。
身支度をすませ、じいや達とふもとへおりる。
見送りの民たちは厳かに、祈るように、列をなして道をつくり、膝をついていた。
ふもとの村には石づくりの大きな船が一隻。
半年に一度、ここからはるか西のほうにある、石の港へ交易に出るための船だ。
もともと樹木の豊かな土地ではないから、この国では岩を加工してさまざまな道具をつくっている。
岩にはよく、中心が空洞になっている浮石というものがあり、船のような水上でつかう道具はそれを加工してつくられる。
浮石内部の空気には神さまの加護が宿っているとされていて、不思議と神都の民にはその空気をあやつることができたので、それもまた浮石の普及を手伝ったのだと思う。
「坊っちゃま、こちらへ」
じいやの促すままに船にかけられた渡り板をわたり、船上から見送りの民たちに手をふる。
これからの旅路に、思いをはせながら。
兄と母の生存を、心から願いながら。
第二節
船のそばを走る潮風は穏やかに波を切っていく。
島を発ってから一月半ほどたっただろうか。
普段交易の際には二ヶ月かけて海をわたり、二ヶ月かけて積荷をそろえて、また二ヶ月かけて島にもどると聞いているので、港まではあと半月といったところだ。
最初の数日は船酔いがひどかったけれど、近ごろはまったく酔わなくなった。ずっと乗っていると意外と慣れるものなんだな。
風の匂いはもうだいぶ、故郷のものとは違う匂いになっていた。
島の風はもっと暖かく、どこか芳ばしい香りだったけれど、海の風は純粋な潮の香りだ。
やはり少し寂しさも感じるけれど、目をとじて胸いっぱいに風を吸う。一月半も嗅いでいると、さすがにすこし落ちつく匂いになる。
しばらくまぶたの裏で潮の香りを楽しんでいると、ふと幼い頃に兄が歌ってくれた唄を思いだしたので、なんともなしに口遊んでみる。
透き通るように優しい旋律。今はもう使われていない古代語で、口伝えに受け継がれてきたものだから、歌詞の意味はよく分からないのだけれど、兄はよくぼくを寝かしつけるときに歌ってくれた。だからきっと、これは子守唄なんだ。
「おや、ずいぶんと懐かしい唄ですな」
しばらく口遊んでいると、じいやが声をかけてきた。
「じいやも知っている唄なんだ」
「ええ。よく存じていますとも。ラフィン坊っちゃまがまだお小さい頃に、よく歌ってさしあげたものです」
「えっ、そうなんだ。知らなかった」
「坊っちゃまがお生まれになってからは、唄を歌うのはラフィン坊っちゃまのお役目になりましたからね」
ほほ、と笑い、微笑ましい想い出をじっくりと思いだすように、じいやはゆったりとした動きで波間をながめる。
「ラフィン坊っちゃまは、坊っちゃまの事を目に入れても痛くない程に可愛がっておられましたので、私めはあの頃専らお二人を見守るお役目ばかりで、少し寂しくもありましたねぇ」
「じいやは働きものだものね」
「いやはや、子離れならぬ孫離れの心持ちでしたぞ」
ふふっと笑い合う。なんとも穏やかな時間だ。
「じいやはこの唄の意味を知っているの?」
「お恥ずかしながら、意味は全く...。ただ、私めが神殿にお仕えした時分には、既に音の口伝のみではありましたが、魔除けの唄とされておりました」
「兄さまはぼくを寝かしつける時に歌っていたから、ずっと子守唄だと思ってたよ」
「ほっほ、悪夢にうなされる者にも効果があった様ですので、あながち間違いでもありませんな。きっと坊っちゃまが悪い夢を見ないようにというお心持ちでの事でしょう」
「そっか...」
兄の優しさを想い出のなかで噛みしめる。一層に決意をかためるように反芻する。
「...ぜったい、会えるよね」
「会えますとも、この一年で必ずみつけましょう。私めも全力を尽くします」
「心強いなぁ。じいやがいれば百人力だ」
「ほっほっほ」
談笑の後じいやも唄に加わり、沈みゆく夕日に二つの声色が溶けていく。
いつか、兄さまとも一緒に歌えるといいな。
第三節
波の音に耳を預けながら微睡に揺れていた時、突然、ドォン、と鼓膜を破りそうなほど大きな音が響いた。
思わず寝室を飛び出して船上に上がると、船員たちが慌てた様子で右往左往していた。
どうやら甲板の一部が何かによって壊されてしまったらしい。
幸い運航に支障はなさそうだったけれど、煙とともに火薬の香り。これは、いったい...。
船員たちの合間を縫って船のへりまで駆けよると、月明かりの海上にひとつ、船が見えた。
みるみるうちに近づいてくるその船は、帆とその頂に掲げた旗に、大きな鳥の頭蓋のマークを携えて、己を誇示するように黒くはためかせていた。
「坊っちゃま!!危ないですから船内へお下がりを!」
じいやが遠くからぼくに叫びかけた。
はっとして船内へ戻ろうと踵を返したけれど、その直後ドスンという音とともに後ろ羽根を引かれ、痛みにびんっと静止する。
「キュッキュッキュ、つかまえたぜえ!羽つき野朗!」
声の方へ振りかえると、でっぷりと太った一羽の鳥人だった。
隻眼に海賊帽、下くちばしに赤い斑点があり、薄墨色の大きな手羽で ぼくをつまみ上げているようだった。
じいやが急いで駆けつけようとしてくれたけれど、続々と飛んできたグリテスが甲板になだれ込んでくるので中々進まない。
「いたい!いたいよ、はなしてください!」
「そいつは聞けない相談だなあ!」
足でバタバタとグリテスのお腹を蹴ってみるけれど、まったく効果がない。無駄だとでもいわんばかりに、つまみ上げたのとは反対の手羽でぐぐっと翼を握られる。
「そんなヒョロヒョロの攻撃、このバーディン様には羽毛ほども通じないぜえ!」
「いたっ、、もう!はなせよ!このふとっちょ鳥!」
「な、ななな、なんだとぅ!」
ふとっちょ、という言葉に反応して、バーディンと名乗ったグリテスの顔が羽越しにも分かるくらい真っ赤にのぼせる。
「クウゥ、言わせておけば、威厳がないだの、脂身ばかりの不味そうな鳥肉だのと、生意気な!」
「そ、そこまでは、言ってないよ!」
「ええい、うるさいうるさい、うるさーい!オレサマを、バーディン様を、なめるなよ!」
言うやいなやバーディンは海に向かってキッキュウ!キッキュウ!と金切り声をあげた。
すると瞬くまに暗雲がたち込め、暴風とともに波が荒れはじめた。
これまでに体験したことのない大波だ。これでは海賊船から逃げようにも、船の舵がうまくとれない。
「キュハハハハ、どうだ!オレサマのチカラは!!あとはこいつの羽をいただいて、、キュワァッ!?」
吹き荒れる突風により、バーディンの船がぼくらの船にぶつかる。その反動でドシンッと転がるバーディン。ぼくの羽を掴んでいた手が、ぶんと投げだされる。
あっ、と声をあげる。からだが宙に浮く。船べりが離れていく。遠くでじいやの声がきこえる。
だめだ、落ちる。
ざぶんという衝撃とともに、鼻の奥をつんと仄暗い海水が刺激した。
落ちきるまえにとっさに呼吸は止めたものの、鋭い痛みが瞬く間にひろがり息が漏れる。
くるしい。はやく、はやく海面にでなくちゃ...。
必死にもがく。波がつよい。流される。叩きつける水圧。意識がうすれる。
いたい。くるしい。だれか、じいや、たすけて
序章「暴風の海原」 完
余録
一般公開イラスト
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