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たぬかな合コンが救わなかったものと弱者男性の定義

前から話題になっていた、たぬかな氏主催の「弱者男性合コン」が行われたのだ。ネットの男女論界隈や弱者男性界隈(?)などが湧いたのだが、これを得たイさんは冷ややかな目で見ていて、終わってみたらまぁ予想通りというか、既視感のある展開になったのだ。

弱者男性合コンは、厳正な審査のもとで選考された参加者が集結したのだが、異様だったのはVIP席で高みの見物をする席が設けられてライブ配信までされたことなのだ。まるでカイジの負債者見物席を思わせるのだ。

そして終わってみれば、弱者男性とは何かみたいな論争が始まるわ、主催たぬかな氏の参加者晒し上げが行われるわで騒動になっているのだ。ただひとつ言えることは、弱者男性合コンの目的は主催たぬかな氏一人の救済だったということなのだ。

今回は元ガチ弱者男性の得たイさんの立場から見る「弱者男性」についての話なのだ。


弱者男性合コンと非モテオフ会と人生無理バー

人は生き方を逸脱すると何度でも同じ過ちを繰り返す生き物なのだ。得たイさんが弱者男性合コンで思い起こすのは、元井氏(@BeVi56174065)の展開する非モテオフ会と、3年前に騒動になった人生無理バーなのだ。この3者は、今回のキーワードである「弱者男性」への差別意識を主催が持っていることが共通していて、自らも弱者であることを否認しているまであるのだ。

まずは3者のイベントの特徴を簡略に説明するのだ。

弱者男性合コン

  • 弱者救済を思わせるニュアンスの企画

  • イベント終了後に主催が騒ぎ立てる

  • のちに主催の差別意識が露骨に現れる

非モテオフ会

  • 弱者救済を思わせるニュアンスの企画

  • イベント終了後に主催が騒ぎ立てる(得たイさんがこの当事者になった)

  • のちに主催の差別意識が露骨に現れる(モテ論争で性暴力を肯定し炎上)

人生無理バー

  • 弱者救済を思わせるニュアンスの企画

  • イベント終了後に主催が騒ぎ立てる(発達障害男性(クソデカ主語)を出禁にする。法律に触れる可能性が高いため会場提供したバーの店長権限で無効)

  • のちに主催の差別意識が露骨に現れる(会場提供したバーのスタッフや客へのヘイトスピーチ)

まず根本的に主催に問題があるのだ。これはそれぞれの経緯からしても明らかで、すべて主催側の問題によって炎上しているのだ。そしてこれらの問題は、すべて同じパターンで起きているのが特徴的なのだ。
ただしこれは、主催側だけの問題で起きているわけではないのだ。参加者側にも問題があり、その問題として共通している属性が「弱者男性」なのだ。しかしこれらはすべて、主催が問題を参加者側に押しつけていることや自らの非は棚上げしていることも共通していて、人生無理バーと非モテオフ会は正しい批判を主催が次々とブロックしたことにそれが現れているのだが、恐らくはたぬかな氏も同様の行動を取るであろうことは想像に難くないのだ。

これらの問題は、生き方を逸脱した者どうしがマッチングして起きた悲劇なのだ。よってこれらの会は、誰も幸せにならない結末に終わったのだ。

参加者側の問題と「弱者男性」の定義

ここで諸問題の中核にある「弱者男性」について理解する必要が出てくるのだ。ここ数年、ラディカルフェミニズムの台頭や男女間の分断により、「弱者男性」が「非モテ」と同様の意味で語られるようになってしまっているのだ。これは社会問題を覆い隠してしまう可能性に繋がることが指摘されているのだが、本来の「弱者男性」は生活困窮者の意味で定義されていたのだ。

そして弱者男性合コンでは、当日の配信で弱者男性っぽい風貌の人物が見られなかった件について、「弱者男性がいない」と批判されていたのだ。合コンには身だしなみを整えられる程度には経済力が必要で、コミュ力も求められるのだ。しかし、終わってみれば参加者の中から弱者男性が炙り出される結果となり沸き上がる批判の中に、たぬかな氏は配信で言い訳をしたのだ。ここまでが様式美なのだ。
他の2者もそうなのだが、彼らは「弱者男性」を舐めているのだ。

たぬかな氏に飛んだ批判によれば「努力できないのが弱者男性」だそうなのだが、これは違うのだ。なぜなら、ガチの弱者男性だった得たイさんが身だしなみで擬態して非モテオフ会に参加 "できてしまった" からなのだ。つまり努力できるかどうかや経済力があるかどうかは、弱者男性の足切りの基準としては不適当だということなのだ。
たぬかな氏は、出会いの場に出てこれる努力ができる弱者男性なら救いたいなどと言ってたのだが、主催と揉め事を起こして3年以上粘着し合うレベルのガチモンでも努力はできる(というか努力した結果がこれ)なのだ。しかしその努力は無駄にはならず、現在ではとある自助グループの代表者をやっているのだ。ガチの弱者男性にも救いはあるのだ。
弱者救済を謳うイベントの主催者が、いかに歪んだ色眼鏡で男性困窮者を見ているのかが窺えるのだ。

得たイさんの経験から「弱者男性」の要件を以下のように提唱するのだ。

弱者男性に対する救済について福祉しかないとよく言われるのだが、その福祉にすら繋がれない人が少なくない数いることは一般的に知られているはずなのだ。なのに福祉が最後の砦だと勘違いしている人が多いのだ。
福祉に繋がれば弱者男性ではなくなるのか、という話になるのだがそれは違うのだな。なぜなら福祉は人生の責任を背負ってくれるわけではないからなのだ。福祉が経済的な支援をする意味はむしろ「この金で自分の人生の責任を取ってね」というところにあり、それができるかどうかにも資格が要るのだ。
その資格が得られない、つまり自分の人生の責任を取りたくて努力してもそれができないのが「弱者男性」だと得たイさんは考えるのだ。福祉には弱者男性を救うことはできないのだ。

得たイさんは約4年前に自助グループに繋がり、そこで初めて「自分の人生の責任を取る方法」である依存症治療プログラムに辿り着いたのだ。そしてプログラムを実践して4年間、途切れることなく福祉からの経済的な支援が続いているのだが、これがプログラムの効果の一つなのだ。幸せになるには人生の責任を自分で取る以外にはないのだ。これができるようになった今、得たイさんはもはや弱者男性ではないのだ。逆に言えば、福祉に繋がっていても自分の人生の責任を取る能力が著しく不足していればそれは弱者だといえるのだ。

弱者救済イベントの主催者も現在弱者である

メサイアコンプレックスという言葉を知っている人も多いと思うのだが、要するに「他人を救っているようで自分が救われたい」心理状態のことなのだ。弱者救済イベントで問題が起こるのは、主催者が救われていないからという理由に尽きるのだ。
ここでいう問題とは主催者の人生の問題なのだ。彼らはその問題が未解決であるにもかかわらず弱者を救おうとするのだが、自分の問題が未解決だから弱者を救う方法を知らないのだ。だからたぬかな氏が後日配信のように言い訳をしたり、元井氏が得たイさんを「女性に危害を加える恐れがある」として出禁にした4年後に自身が女性に危害を加えて大炎上したり、人生無理バー主催が逆に会場出禁になって別のイベントに犯行予告をする等の "答え合わせ" が起こったのだ。これらはすべて自身が招き寄せた結果なのだ。

依存症治療の文献にはこうあるのだ。これは3年前の人生無理バーについての記事でも引用した箇所なのだ。

 初めに必要なのは、自分の意志で突っ走ろうとする人生は、うまくいくものではないと受け入れることだ。そういう人生は、どんなに良いことを目指していても、まず年がら年中、人との間に、あるいは何かのことで、ごたごたが絶えない。ほとんどの人は自分の力でなんでも進めて生きていこうとする。誰もが、何もかも取り仕切りたがる役者のようで、照明を、踊りを、舞台装置を考え、全部の出演者を、自分のやり方で動かそうとする。その人の演出どおりに、その人の望みどおりに配役が動いたときにだけ、芝居は上出来となる。その人は喜び、人生は申し分ないと満足する。こうした演出にかけて、わがアルコホーリクの役者はかなりの大家だといえるだろう。親切で、思慮深く、忍耐強く、寛大で、節度があり、献身的でさえあるかもしれない。あるいは意地悪で、利己主義的で、わがままで、不正直かもしれない。だがそのようなさまざまな特性を持ち合わせているのは、わが役者も多くの人たちも同じだろう。
 ではどういうことになるのか。その芝居は成功しないだろう。彼は自分は運が悪いと考え、もっとがんばろうとする。次の回からはよけい命令的になるが、あるいは愛想よくするかもしれない。それでも芝居は、彼の気に入るようにはならない。自分にも幾らかはまずい点があったかもしれないが、彼はそれ以上に人のせいにする。いらいらし、憤慨し、そして自分を哀れむ。では彼がかかえている根本の問題は、いったい何なのだろうか。彼は人に親切であろうと努めていた時でさえ、実は自分勝手ではなかったのか。彼は、自分で何もかも取り仕切っていれば申し分のない満足と幸福がつかみ取れるのだという妄想にとり憑かれていたのではないか。そして他の出演者はみんな、それを知っていたのではないか。そろって出演を辞退し、芝居をめちゃくちゃにして、彼に報復してやれという気持ちをみんなにさせたのは、彼の行動ではないのか。彼はどう見ても、協調よりも混乱の演出家ではないのか。

アルコホーリクス・アノニマス P87~89

弱者救済イベントの主催者はまさしくこの「役者」そのものなのだ。そしてここに書かれている結果も3者の態度に表れているのだ。
主催の彼らは、彼らが見下している弱者男性と何ら変わらないのだ。自分の人生の責任を取る方法を知らないからこの役者のように何もかもを自分で取り仕切ろうとして周りの反感を買い、自分自身の問題を参加者に転嫁するのだ。
たぬかな氏の後日配信の時の態度は、自身が救いたくない(自分のために利用できそうもない)弱者男性の姿そのものなのだ。たぬかな氏に限らず、弱者救済を謳うイベント主催者が切り捨てたのは自分の思い通りにならない他者のようで、実は弱者を同族嫌悪している自分自身なのだ。

そしてこの答え合わせはまだ始まったばかりなのだ。たぬかな氏の後日配信は「的を得ている」「正論」などと言われているのだが、得たイさんは同様にアライさん界隈で賞賛されていた元井氏がのちに差別的・利己的な発言により界隈からのバッシングで炎上・凍結に至った前例を知っているのだ。これと同様にたぬかな氏は今後何かしらの失言により信頼を失うであろうことは、このままだと免れないのだ。

性依存症治療の文献にはこうあるのだ。

 自己への執着は、冷静さや温和で親切な感情、あるいは他人に関心のあるふりをし、上辺を偽装して本当の自分を隠そうとする意図から見ると、別の様相を呈する。自己に執着する気持ちが強ければ強いほど、対する感情の偽装も大げさになる。自分の欠点が明らかになって、正体を見破られないよう必死になる。この状況は例えば貯水池の堤防にはいった裂け目やひびのように、のちに不幸を引き起こす類の障害に変わる。そして自己への執着は、その人を必然的に霊的に盲目な状態へおとしいれる。自分の問題に直面するのを避け続けるため、私たちは他人の過ちや欠点を捉える。

セックスアホーリクス・アノニマス(ホワイトブック) P52

依存症治療プログラムは、自己への執着を「自分自身が神であるかのように振る舞う」としばしば表現しているのだ。主催者たちは自分が神のように振る舞っているから弱者救済という大義名分を冠したイベントを実行できるのだ。自分自身が神になることによって、他人ではなく弱者である自分自身を救おうとしているのだ。

囚われた主催者たちが救われる道とは

弱者男性は自分の人生の責任を自分で取る方法を知らないから、自分を救済してくれそうな他者を見つけて人生を明け渡してしまい大絶賛するのだが、主催者たちもまた自分の人生の責任を取る方法を知らないゆえに、信者を抱え込んでコントロールすることによって自分の人生を他者に委ねているのだ。それは他人への(中毒という意味での)依存なのだ。
そして彼らは自分自身を救うために他人の評価を得ているのだ。だから弱者救済の大義名分が必要なのだ。その生き方はいつか必ず身を滅ぼすのだ。

最も救いが必要なのは弱者男性よりも彼ら主催者なのだ。プログラムの引用でいつも言ってることなのだが、彼らの背景にもまた深い恨みの感情の溜め込みがあり、それを原動力とした行動パターンの通りに生きているのだ。
弱者救済は本当に彼らのやりたいことなのか?あるいは自分の姿を理想に近づけるための擬態としての手段なのか?そこを考えるべきなのだ。

弱者男性の救済と称しているもののアプローチが恋愛一辺倒なのは、主催者に見え隠れしている恋愛依存症の症状のサインだと得たイさんは考えるのだ。あるいは「性的拒絶症」のひとつのようにも思うのだ。「負の性欲」と呼ばれているものの一端があるのが、弱者救済としての男女間の出会いのイベントなのだ。

先述のように得たイさんはとある自助グループの代表をやっているのだが、プログラムによって判明した得たイさんの性格上の欠点は承認欲求が強すぎる(利己的)ことである故に、利己心を捨ててグループに無償で奉仕することを心がけなければならないのだ。プログラムは、グループ内で役割をやることによって利己心を捨てることに繋がり、他者へ無償の愛を与える訓練の場になることを示しているのだ。
自助グループには新しい生き方の原理があるから健全な運営ができるのだ。ゆえに自分が健全な生き方を目指さない限りは、救済とは逆の結果になり他者との衝突がいつまでも続くのだ。弱者男性も、イベント主催者たちも、他者を救うフリをして自分自身を救う利己心に気づき、それを改めなければならないのだ。そしてこれは、グループの代表である得たイさん自身への自戒でもあるのだ。

自分自身のために弱者を切り捨てた主催者たちの、そしてそういう古い生き方をしてきた得たイさん自身の平安を祈るのだ。


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