今日の私は小さな点
最近、夜寝る場所を窓の下のソファに変えた。寝転ぶと、空が見える。天気がいい日には星もそれなりに見える。今夜も星が見えていて、今はオリオン座と名前の分からない明るい星が数個。薬が効いて眠くなるまでの間、考えたことを残してみたい。
先に言っておくと、結論の無い、だらだらとした思想記録になってしまうから、日記の覗き見をしているくらいの気分で読んで欲しい。
今夜はこの曲を流しながら書いている。読んでもらう時にも、同じ曲が流れていたなら、と思うと少しどきどきするから、よかったら。
ふと、人間の価値ってなんだろうかなと思う。
私は聖書を片手に生きているので、神から与えられた価値はどの人にもある、こんな私にもあると言ってくれる神が居るから、今日も大丈夫、と落ち着かせる。
でも、価値が常に計られるところに身を置いていると、どうしても狂ってきてしまう。
そんなこんなで定期試験前、例の如く心を殺している私なのだが、定期試験も残り2回、この感覚も忘れてしまうのだろうかと思うと怖くて仕方ないので、ぐるぐるしたものを残しておこうと思った。
評価をされることが、私は怖い。自分が何者でもないことを知っているし、何者でも無い者が何者かであるかのように振る舞うことは恥ずかしいこと、或いは馬鹿にされるべきことなのだと叩き込まれて生きてきた。その「恥」の意識から、私は何者かになるために努力をしてきたのだと思う。そして恥をかくことになったなら、変えられない過去の自分のせいにして、仕方ない、なんて言葉で片付けていた。
けれど、今一度問いたい。苦しい努力の末に得られた評価は、今の私が求めているものを、本当に満たしてくれるだろうか。
努力の末に満たされた記憶はある。有難いことに、私は人との出会いには本当に恵まれていた。しかし、それは当然の如く一過性で、あまりに虚しいなと感じるようになってしまった。
また、このことを強く疑問視するようになったのは、生活の中での評価の比率がぐんと上がるようになった受験生という仮面生活のせいだと自覚している。紙に向かうだけで私が数値化されて、日本中の同年代の中でのランク付けをされ、将来の「希望」率まで計算してくれる。或いは一日の勉強時間を記録してくれるアプリもある。前例の数に安心して信頼してみたり、自分に課金された数字を自分への鞭にすることもある。まともに受験生でいると、生活は何をしていても数字に置き変わっていく。私は誰だったか、何をしたくて今こんなことをしているんだと思ったら負け、ロスタイムが増えるだけで無駄、常にそう言われながらカウントダウンの秒針の音を聞かされ続けている。
正直、私が苦しいと思うのはこの点だ。そんな「無駄」なことを考えずに、目の前の与えられたタスクをこなし、決められた望まれるレベルまで自分の能力をあげ、暗記事項を頭に詰め込み、時が満ちたら目の前の紙に転写することの上手い、そういう「性能の良い」学生になれれば良かったのに。点数の数字の大きさから喜びの感情が生成できる、勉強にかけた時間の数字に満足できる、ランク付けで上位に食い込めば優越感の得られる、前例の数の多さで人を信頼出来る、そんな学生だったら、もっと楽に「努力」できたのだろうか。逆説的には、その感覚のために、自分が死にそうになるまで「努力」することが出来たのだろうか。
ここまで書いて思い出した。わたしには「努力は美しい」という感覚が多分少し欠けている。ここまで書くと誤解されそうだが、努力断固否定派、な訳では無い。
結果主義な世間であるのに、その中で努力をすることは、私には怖い、という意味だ。
努力をしたって(それがその人にとって死に瀕するくらいのものであったとしても)、結果がイマイチであればその人の努力は評価されない。それどころか、結果がイマイチであることから逆算して、その人が本気で努力していたほどその人は大したことの無い人、という烙印さえ押される雰囲気さえ感じる。あれだけやって、結果はこれだけ。私には言われた記憶があるからかもしれない。その言葉をかけられた瞬間に、私は努力した過去の私を全て殺した。
今の私は、この「受験生」という仮面をつけて生活してみている。何か新しく感じられるかもしれない、気づけるかもしれない、と思って始めた受験生活だったが、苦しいことに違いはない。私自身の生活が数字に犯される不安もあれば、周囲の友人が飲み込まれていくような姿を見るのが苦しかったり、大多数の「努力こそ(=結果を出す人間こそ)最高価値である」というスローガンには私が考えていたことが上手く噛み合わせられなかったり。そして「努力」の「評価」、つまりは結果を出して私という人間の価値を示さなければいけない試験日が近づくことが、なによりも怖い。
つい先日、私が仮面を脱いだ時間があって嬉しかったので残しておく。この日こそ、私がこのnoteを書くきっかけとなった日だった。
放課後に学校の美術室によった時、美術科の先生と同輩ふたりが話していたところにまぜてもらって、ちょっとした談義をした。 久しい同輩の話を聞くことができて、さらにはそのふたりが私にすごく近いことを話しているのを聞いて、肩の力が抜けたのを覚えている。その場ではやはり、受験生活の中での自分の立ち位置であったり、受験生としての生き方というものだったりが話題になった。
ほんの20、30分くらいだったと思う。美術家の先生の言葉が私の仮面を取った。取られた、という感じ。悔しいわけじゃないけど、自分でも少し意表をつかれた感じだった。
『(受験は)これから自分が学びに行く場所を決めているだけで、これから就職とかもっと先もあるのにね………流れが早いここで生きているだけで十分頑張ってる。止まっているように見えても、それだけで大変なんだから。普通のプールに行ったらめちゃくちゃ早い魚だよ?』
聖書から感じる「大丈夫」のメッセージと同じ重さの何かがあって、私の仮面は学校であるにもかかわらずさらっと剥がれてしまったのだった。
私の心に滑らかな口があれば、こんなことを口走っていたと思う。『勿論、分かってるんです。私がここにいるだけじゃ、誰に何も出来ない、無力です。けれども、ここにいることに気づいてほしい、まずは、居ることを評価してほしい。居るだけで苦しいと思ってしまう私と、私が「自分が居る」ことにしか力を使えていないことをゆるしてほしいです。』
まるで祈りみたいじゃないか。
そうか、そうだったな、ここにも神さまがいるな、この学校にもそんな場所があるな、とか、瞬間的に、感覚的に、鮮明に、思う。
努力も評価も、今後の人生にずっと付きまとうものだろうし、考えてしまう私という人間性も生涯付き合わなくてはならない(付き合っていたい)ものである。
だから中継地点として、今の私の考えを残しておく。いつかこの文章を見下げることなく、しかしクリティカルに見ることが出来る日が来たらいいのに、と思う。
最後に、私が唯一自分で肯定できている努力を書いて終わろうと思う。自分が欲する知識を得るのに必要な努力、だ。
というのも、知識を得ることがいかに視野を広げるかということを、私は高校生になってから、また違う教師から教えてもらったからだ。先日のエピソードで美術室を尋ねたのも、私を感動させてくる「美術」を知るために知識が欲しかったからだった。
今見えるオリオン座にも、知識に基づく美しさがある。「オリオン座」なんていうつなぎ方を知らなければ、『星綺麗〜』で終わっていただろうが、知識があるだけで、この形を昔の人も見ていたんだとかいうロマンだったり、その背景にある神話を楽しんだり、星座早見よりずっと大きいサイズ感で天に張り付くその並びに宇宙の神秘を感じたりできる。空の点のつなぎ方ひとつ、関心を寄せるだけで、こんなに豊かな気持ちになれるなんて、そしてこれをひとりで噛み締められるなんて、私は幸せでたまらない。学びが人生を豊かにする、という常套句はあながち間違っていないのだと身をもって感じている。
私が生きた今日も、苦しいなと思う現状も、傷ついた過去も、全部点であるとするならば、そのつなぎ方を知らない今、苦しかったりつまらなかったりするのは当たり前なのかもしれない。
SteveJobsは2005年、ある大学の卒業式に招かれた際のスピーチで、このような言葉を残した。
知識を得ることで人生がわかる、とは思わない。人生が楽になる、とも思わない。けれど点が繋がることを信じながら、知識を得ながら生きる努力をすることは、きっと悪いことじゃない。今日の私は点だとしても、点を重ねて点描みたいな毎日を過ごせたら、いつかこの絵は完成してくれるのではないだろうか。