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「完璧」じゃないから、いい世界なのだ。


10月の連休のとある一日。
3年ぶりの運動会だった。
「運動会のこの雰囲気、懐かしいな」と思うほど。

驚いたのは、3年も経つと
子どもたちの雰囲気ががらりと変わってしまい
遠目から見たら、どの子がどの子になったのか
わからないほどだった。

今、うちの子は6年生。
3年生の時の運動会が最後で
そこから3年経っての今回の運動会。

体操着に書いてある名前をたよりに
3年生だった頃のお友達の顔を思い浮かべる。
みんなずいぶん成長して
会えなかった空白の3年間の
大きさに感じ入る。

それは親たちだってそうで
○○くんのお母さんもなんとなく
変わったなぁと思う。

それにしても…
今回の運動会は
きっと誰の目から見ても練習不足…
に映っていたのではと思うような感じだった。

記憶の中にある
息子が幼稚園の年長さんだったころの組体操と比べても
どの学年も、わちゃわちゃしていて
思わず苦笑い。
あれれ…という感じだった。

9月に新学期が始まり
少しコロナが学校で流行ったのと
ぐずぐずと降り止まない雨のせいで
思うように練習ができなかったようだ。

特に、5・6年生の男子は
マスゲームをしたけれど
外練習なしでのいきなりの本番。

大きくフォーメンションを変えるときになると

「こっちじゃない。」
「もっと、あっちだ!」
「お前たちはむこうだ」

と声をかけあいながら、周りをみながら
いったり来たりしつつだった。

私も同じく小学5・6年生の時に
マスゲームをしたことがあったけれど
こんなんじゃなかったなぁ…と苦笑い。

だけど一緒に観ていた保護者の雰囲気は
どこか何か、ふぅと気の緩んだ
柔らかいものだった。

例年の完璧な演技を前にした時とは明らかに違う
親たちからの優しいまなざし。

その一人ひとりから注がれる優しいまなざしが
一つにまとまり、タッグを組んで
演技をする息子たちをふわりと守っていた。

「どんな出来映えでも大丈夫。
どんなあなたたちでも見ているよ。」

言葉にするとそんな優しいまなざし。
私もその場にいられることが
とても幸せだった。

ドタバタしながらも
一生懸命に演技をしている息子たちと
だからこそのあたたかな空気感。

出来栄えとか
スマートな戦いぶりとかではないところが
心に残るような運動会。

こんな素朴な運動会も
とてもいいなと思う私がいた。

そして、ふと自分のことを振り返って見ると
私は小さい頃から
完璧なパフォーマンスやハイレベルな競争、
何かの結果を出すことを
ずっと求められてきたように思う。
それが、例え小さな事で運動会という場でも。

でも、そもそも完璧なものってあるのだろうか?
完璧な世界ってあるのだろうか?

私は完璧ではないけれど
進化し続ける世界であることこそが
完璧な世界なのではないかなと思う。

ドタバタしながらもマスゲームを終えて
全速力で退場門に向かって駆けていく
息子たちの姿は
運動場でダイナミックに動けた喜びや
充実感、安堵感に満ち溢れていた。

まだまだ進化の途中…な息子たちの姿は
とても美しくて逞しくて輝いていた。

「完璧」ではなく
進化の途中だからこそ、見えたものがあり
感動できたのだと思う。

そしてそれこそが
「完璧」なのかもしれないなと。

久しぶりのお弁当作りがドキドキだった
私のお弁当作りも進化の途中と思いたい。


「神はこの世界を完璧に創り給うた」と
聞いたことがあるけれど
それは「変わり続ける、進化する世界」を
完璧に創造したということなんじゃないか。

だから「完璧」なんてないのだから
どんどんやって、失敗して
修正して、またやって…いけたらいいと
息子たちにも言いたいし
何より私自身に言ってあげたい。

大切なことを思い出すことのできた
いい運動会だった。

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