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ライズオブローニンを楽しむための幕末日本事情


2024年3月22日に発売となるライズオブローニンことRise of the Roninだが、幕末ってどんなだっけ?
と、やや忘れ気味の私自身のためにもここで復習しておこうと思う。誰かの役に立てば幸いである。
尚、1項目の「なぜ幕末に?」は本記事の内容の更に復習となるので、ある程度歴史に詳しい方は飛ばして頂いて結構だ。簡易的なものなので、満足頂けないだろう。



なぜ幕末に?

江戸幕府の末期を指して幕末と呼ぶわけだが、そもそも江戸幕府が末期を迎える羽目になったのには複合的な理由がある。

西暦1600年に関ヶ原の戦いを徳川家康が制し、江戸幕府を開き1615年の大阪夏の陣によって豊臣を潰した時点で徳川の天下はほぼ揺るぎないものになった。
あとの不安要素は海外の勢力くらいなものだった。

どこが不安なのか?
最も近い朝鮮?違う
大国の支那?違う

豊臣秀吉の頃から頭痛の種となっていたのは、いわゆるキリスト教国だ。

豊臣秀吉も徳川家康もキリスト教国(主にスペイン、ポルトガル)との貿易自体は大変魅力に思っていた


だが問題はキリスト教だった。これが日本には有害であったため、

「貿易は続けたいが、布教はやめろ」

という意思表示もしている。
この辺りの事情は潜伏キリシタンについて記事を書くので割愛

話を続ける。結局のところ、1637年に発生した島原の乱によって完全な破局を迎える。
幕府はスペインに続きポルトガルも閉め出し、オランダのみと貿易をすることにした。当然だがオランダはキリスト教の布教をしない約束だ。
実際のところ、スペインとポルトガルが世界で何をしていたかを考えれば、この時点では妥当な政策ではある。

こうして、江戸幕府は支配体制を強固にし、
各藩への嫌がらせに勤しんだ。これは幕府の失政の1つでもある。

主な嫌がらせ(キリがないので有名なもの)

・参勤交代
・公共事業(特に薩摩藩)
・因縁をつけてのお家取潰とりつぶし

主な失政(キリがn以下略)

・農業重視の商業軽視
・外交自体を怠ったこと
・世襲が行き過ぎての外部の人材を潰したこと
朱子学しゅしがくを公式な学問にしてしまったこと

これらの嫌がらせと失政によって幕府も各藩も財政は悪化し、当然だが浪人(本来は牢人)が溢れた。
藩の中には財政を立て直した傑物も存在する
が、全体で見れば芳しくない。
戦争のない江戸時代の浪人はそのまま社会不安だ。江戸幕府には保科正之ほしなまさゆきのような有能な人材もいたが、できることには限りがあり、浪人問題は解決できなかった。
と言ってもこの時代の浪人は幕末の浪人とは性質が違い、自業自得もあれば、運が悪かっただけ、或いは幕府の失政の被害者というものだ。あえて浪人になる者は幕末とは比べるべくもない。

根本的に幕府の何が悪かったかと言えば、以下の3つに集約される。

1、人心、世情、国外事情への無知
2、人の話を聞かない
3、変化に適応しない

少し詳しく書けば、

無闇矢鱈と浮浪者を増やせば幕府に不満が向くのは当然であるのに、小さな問題を良い幸い平気で取潰などを行ったこと。

借金を帳消しにされたら、お金なんてもう貸してくれなくなるにも拘らず、武士の貧窮を徳政令で解決しようとしたこと。

貧窮した農民が仕事を求めて町に来ているのに農村に帰したこと。

江戸幕府の公式学問である朱子学に基づけば、天皇こそ正当な君主であるのに朝廷を軽んじていること。

海外では産業革命が起こり、軍事力の事情が変化し、国家間の距離が縮まっているのに適応を怠ったこと。

開国についてオランダから散々忠告を受けていたにも関わらず、まともな対策もなしにペリーの来航を迎えたこと。

など、無知、傲慢、泥縄対応、が目立つ。

しかし、これらの問題は単体で見れば、幕府存亡を揺るがすようなものではない

実際、飢饉などで貧窮した際には、幕府からの救済措置が用意されていたし、一揆打ちこわしの類は政権交代や国家転覆を狙ったものではなく、食い詰め強盗のようなものだった
各藩も不満はあれど、幕府転覆を狙うほどのことはなかった。
また、明治維新後の徳川慶喜(最後の将軍)が多少の制約はあれど、国内でそれなりに楽しく過ごしていることからも、徳川幕府がフランス宮廷とは違うことが分かるだろう。フランスの王家や貴族がどうなったことか。

ではなぜ幕末を迎えることになってしまったのか?

それは簡単だ。
江戸幕府は徳川幕府であって、日本国政府ではなかったからだ。
徳川家と譜代と外様。まさにこれに尽きる。

江戸幕府は権力を独占しただけで、権力を統一しなかった。外様は貴重な国力でも人材の宝庫でもなく、仮想敵国なのだ。

よって、地方の利益は幕府の脅威でしかないし、幕府の利益は幕府の利益でしかない。国を想うにも徳川ありきだった。

幕府からすれば、地方の力は削げるなら削げるだけ良い。
民を苦しめる必要はないが、地方政府たる藩を締め上げる必要があった。

だが、大規模な発展はトップダウンで効率化された組織でこそ叶う。弱い地方政府では地方の発展は難しい。かと言って幕府が何かしてくれるわけではない。
そもそも朱子学的には近代的な発展は堕落だ。幕府の基本方針は倹約と奢侈しゃしの禁止である。

地方や経済成長を蔑ろにする政策で国力など増すはずもない。

確かに各藩はかつての敵ではあった。だが、すぐには無理でも統合していかなければならなかった。
外交もそうだ。島原の乱以降の強い鎖国政策は海外勢力の影響力を日本から排除するという意味では正解だった。
だが、ペリー来航の1853年までに一体何年あったのだ?
200年以上も時間があったのだ。ほぼ独裁のような江戸幕府の政権下が。
内政も外交も立て直す暇は十分にあった。それを怠った結果が幕末なのだ。

もっとも、江戸の社会はほぼ完全な自給自足が可能な社会だった。それ自体は外国人も評価している。だから、列強さえ来なければ江戸幕府は存続していた可能性がかなり高い。

だが、来てしまったのだ。

道義的に考えるなら、無理矢理日本に押しかけてきた列強が悪いが、この世界は善悪で運営されているわけではない。対応できない方が悪いことになるのだ。しかも幕府には、先述したように備えるだけの時間も権力も情報もあった。

本題(幕末日本事情)

ここでは幕末日本の雰囲気について、主に外国人の目線から書いていこうと思う。
歴史の教科書の振り返りのようなことは歴史の教科書を読めば良いし、年表や出来事を羅列しても退屈だろう。偉人の裏話も芸がない。
だから、外国人の視点を取り入れた幕末日本事情を書こうと思う。

軽い読み物のつもりなので力を抜いてどうぞ

幕末雑学

武器について

日本軍の武器についていえば、それがどこで製造されたかによって、口径も、構造も一定していない。私は、ある役人に案内されて、ベンタンの兵舎の武器庫に行ったことがあるが、そこで四種類の小銃を見た。最初に、その役人はオランダ製の銃を見せ、次に、このオランダ銃を見本にして、江戸の工場で製作した下級品とアメリカの銃を持ち出し、最後に、若い将校が、兵舎の庭で兵士たちの教育用に使っているミニエ式の銃を示した。私は、彼を自分のところに招いて、猟銃とスイス製の騎銃を見せた。すると、彼の数名の同僚が、彼と一緒に私のところに押しかけて来た。彼らの検査と観察が終わった後、その中のひとりが、「この銃は、われわれの知っているものよりも、射程距離において、射撃の正確さにおいて、優れてはいるが、装弾装置をもっと完全なものに改良する必要がある」と、いった。
彼らは数日前、プロイセンの海防艦ガーゼリの陸戦隊の兵士の所で、針発銃を見ていた。これは1863年のことで、当時、誰もプロイセン軍の装備に注意を払わなかったことを指摘せねばならない。
(後略)

絵で見る幕末日本pp240-242
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

この当時の銃器は上にあるミニエ式の銃、いわゆるミニエー銃のようにまだ前装式が主流であった。
前装式とは銃の構造の話であって、ご存知でない方のために解説すると、弾丸を銃口から炸薬と共に入れるタイプの銃のことで、当然火縄銃もそうだ。これは暴発の危険もあり、また、連射ができない。一発撃っては詰め直す必要があるからだ。それに詰め直すのも楽ではない。周囲に十分な空間がないと無理だからだ。
そして、前装式に対して後装式の銃がこの後は主流となる。勿論、現代使用されている銃も後装式だ。前装式に比べて特に優れているのは装弾の簡易さだ。銃口から弾丸と炸薬を入れる必要はなく、弾丸と炸薬をまとめた弾薬を銃の後部から装弾することができる。これは革新的で、いわゆる、マガジンつまり弾倉というシステムも生まれる余地ができる。弾倉があれば装弾はより容易になり、連射が可能となる。また、湿気に対しても強い

引用文中の針発銃とはプロイセンのドライゼ銃のことだ。これは当時としては珍しい後装式の銃であった。だからこそアンベールは日本の役人を評価しているのだ。

江戸の町の門

あの不愉快な門すべてを守っているのは彼らであって、彼らがこれを閉ざしてしまうと、ある町から他の町へ通れなくなるばかりでなく、江戸のすべての主要道路への交通が遮断されてしまうのである。

続・絵で見る幕末日本p70
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

引用文中にある「彼ら」とは、自身番じしんばんと幕府の警察機関のことを指している。
自身番とは町人運営の番所であって町人が詰めており、幕府の警察機関とは幕府直属の役人が詰める場所を指す。
この門には本当に門限があり、基本的に日中は開いているが、夜間は閉じられる
写真がインターネットで検索できるので参考にされると良いが、中央に大きな扉があり、その両端に潜り戸がついている。門限に間に合わなかった者は、いくらか質問に答えて通してもらう必要がある。
昼間でも犯罪への対処として門が閉ざされることもある。


江戸と魚

(前略)
江戸の日本人は、貝類を大量に費消している。
くらげ、なまこ等な発光虫は、乾燥したものを売っている。細かく切って米と一緒に食べるのである。
細長い特種な小魚があるが、これらは、太陽に乾燥する以外、なんの加工も加えずに食べている。
牡蠣はたくさん取れる。日本人は、石で叩き割って、中身を取り出している。真珠がとれる鮑の一種で、浦賀は、干した牡蠣を全国に配給している。
(中略)
時々、群集は、海豚や鱶等を入れた、長い竹籠を運ぶ二人の苦力に道を開けてやっている。
日本橋界隈で、鯨や鱶(まぐろ?)の肉を売っている商人たちのグループが、われわれを驚かす。
(後略)

絵で見る幕末日本pp260-262
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

他にも養魚池を見たり、刺身に関する描写もある。日本人の海産物好きは筋金入りのようだ。
また、江戸湾では網漁も行われており、簀立てすだてや投網によって漁をしていた。

また、江戸時代は釣りの流行した時代でもある。今現在の私たちが狙うような魚もよく釣られていた。例をあげるなら、マダイ、クロダイ、カレイ、アイナメ、スズキ、ボラ、キスなどなど様々だ。ちなみに、食用でない釣りは特に粋であるとされた。

町人などの食事

これらの料理は海塩や、唐辛や醤油などで味付けをする。この醤油というのは、大豆を発酵させて抽出した大変よく利くソースである。半熟や固茹でにした、産みたてか、またはよく保存された卵、よく煮た野菜、つまり蕪や人参や薩摩芋などや、筍を輪切りにして酢漬けにしたものとか、または蓮根のサラダ、このようなものが日本の中産階級の昼食のメニューの全部である。

続・絵で見る幕末日本p54
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

文の都合で引用しなかったが、これらの料理には鳥の肉、蟹、魚なども含んでいるようだ。
そして、アンベールが見たには彼らは昼食後に二、三時間の昼寝をしていたらしい。
これに羅列されているメニューは幕末の町人階級の食事なのだが、ほとんど現代と変わりないものを食している。ただ、牛肉やその他の肉類は大っぴらには食べられていなかったと思われる。隠れては食べられていたらしい。
また、食べ物としてではなく、薬(言い訳)としては取り扱われており、これは言い得て妙である。
なぜなら、江戸には白米食が広がったことを原因に脚気かっけが広まっている。膝を木槌でコーンと叩くアレである。この病はより白米食が広まる明治に大流行するのだが、この時代では「江戸わずらい」と呼ばれるほど江戸に集中した。これは白米食に傾倒し過ぎた結果としてビタミンB1不足で患う病なのだ。現代人の感覚としてはわからないかもしれないが、死ぬ病である。
牛肉に含まれるビタミンB1は豚のそれよりは低いが、薬にはなったかもしれない。しかし鳥の肉は食べれていたようなので、栄養バランスが大事であるようだ。
ちなみに船乗りが患いやすい壊血病はビタミンC不足が原因である。どちらも死ぬ病なので解決策が見つかるまでは大変恐れられていた。
人間は栄養が偏ると本当に最悪死ぬので現代人も肝に銘じておきたいところだ。

ヨーロッパ人の食事
支那人は日本では「ナンキンサン(南京さん)」と呼ばれており、アンベールらは料理役として支那人を雇っていた。

われわれの雇っているナンキンは、自分の民族の服装をしており、膝より下まで届くといって、彼自身が自慢にしている弁髪まで、そのまま残している。かれらの任務は、わが国の台所係みたいなものである。全極東で、ヨーロッパ人は、この任務を、普通、料理に天与の才能を持つ支那人の手に委ねている。

絵で見る幕末日本p84
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

これは、当時の支那(現中国)が実質的に列強の支配下にあったことと無関係ではない。
中華料理が好きな私としては「料理に天与の才能を持つ支那人」とは、支那人の中でも、ではなく、支那人には料理に天与の才能があると捉えざるを得ない。


農民について

自然の富に囲まれながら、勤勉でものわかりの良い多数の日本農民は、貧弱な小屋と、農具、数着の木綿着、畳、蓑、わずかの茶、米、塩のほか、自分のものは何ひとつなく、いわば最低の生活必要品以外は何ひとつ持たなかった。
(後略)

絵で見る幕末日本p63
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

士農工商とは言われても、それは豊かさの序列ではない。有名な太田道灌おおた どうかんの話を想起して蓑があるだけマシ※1だと思うかもしれないが、
米が価値である江戸時代では米の生産高が上昇すればするほど米の価値は下がる武士も禄(給料)は米であり、換金の必要があるので、米の市場価値に生活を左右されやすいのだ。

※1 月岡芳年の浮世絵↓

太田道灌が雨に遭い、蓑を借りようとした家で女性が山吹の花を差し出す。太田道灌は怒って帰るのだが
山吹の花には、
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」
という意味が込められていたことを後で知る。ちなみに元の歌は「なきぞあやしき」であり、それに準えて
「実の(蓑)ひとつだに なきぞ悲しき」
太田道灌は無学を恥じて精進したという話。


宗教について
横浜に滞在したアンベールは付近の仏教僧も観察している。
また、江戸時代の日本は基本的に国民はどこかの寺に籍を置いている。

(前略)
彼らの衣服は、大部分、不潔でだらしがなく、顔の表情は愚昧と不満の影を持っており、外国人の訪問者に対する強い反感を示していて、ことさら彼らを避けて、近づかないように努めていた。

絵で見る幕末日本p93
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

はっきり言ってキリスト教徒が仏教僧に対して良いイメージをもっている場合は極めて珍しい。寺社側からしても以前国内のキリスト教徒によって打ち壊しを受けているところもあり、イメージは良くない。
基本的に排他的な一神教と相性のいい宗教はないので、どっちもどっちとは言い難い。

また、どうも木魚の音がお気に召さなかったらしく、かなり徹底的に邪教だと罵っている

また、以下からは宗教とは別に食事事情も伺える。

日本の神社仏閣のきまった付属物に、茶屋と料亭がある。そこでは、茶と、米で造ったアルコール飲料のサケ(酒)が一番多く飲まれ、果物や、魚や、米や麦で作った饅頭を食べ、小さな金属製の煙管でこまかく刻んだ煙草を吸っているが、麻酔性の合成物は取らず、阿片に対する執着は日本では見られない。こうした場所では、女たちが給仕をしているが、大部分は申し分のない、慎ましさが目立っている。
(後略)

絵で見る幕末日本p95
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

猫について

(前略)
家庭における子供の遊び友だちは、
(中略)
白っぽい毛に、黄色や黒の斑点のある特種な猫で、この猫は、鼠取りの方は不得手で、極めて怠け者で、人に甘えることだけは達者であった。
(後略)

絵で見る幕末日本pp124-125
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

これは恐らく三毛猫のことであろうが、なんと辛辣な書きようだろうか。確かに鼠対策として広く飼われた猫ではあるが、元は愛玩動物だ。ネコと和解せよ。
また、余裕のある家庭にはたいてい金魚が飼われていたらしい。猫とどうやって共存したかは謎だ。

お賽銭と余談
川崎大師にて、

(前略)
参詣者はみな堂内に参入する前に、この清らかな泉水で手や口を清める。そして願いごとのために、いくらかの賽銭を上げる。この金額は、上げる人の気持ちにしたがっていると思う。多くの場合、わずかな施しは日本の金の2、3厘ばかりだ。換算すると英貨の4分の1ペニーくらいになる。
(後略)

幕末日本探訪記 江戸と北京p151
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行

前半部分は手水屋のことで、現代でも参詣する時には行う。

ここから下は無駄に長い上にガバガバ理論なので読み飛ばして構わない。

まず英貨のことだが、4分の1ペニーとは1ペニーの4分の1ということなる。
英貨は、
1ポンド=20シリング
1シリング=12ペンス
ペンスとはペニーの複数形だ。
その4分の1ペニーが日本の金で2、3厘だと記してある。
ロバート・フォーチュンの滞在の最後は1861年であり、日本の貨幣でりんという単位がでてくるのは新貨条例後の1871年である。よって、この場合の厘とは尺貫法に基づく重さの単位であると判断したい。すると、金とはかねではなく、きんだと思われる。
そして、1厘は37.5ミリグラムとなる。
100厘で1もんめ=3.75g
10匁で1両
つまり、1両=37.5g
ちなみに100両で1かん=3.75kg
だから、100貫のデブとは375kgのデブとなる。相撲取りはデブではないのであくまで参考にだが、日本相撲協会の公式サイトを参照すると、朝青龍が154.0kg、白鵬が155.0kgなので百貫デブという悪口がいかに現実離れしているか分かる。

今の純金の価値が1gあたり約10000円
明治の新貨条例では純金1.5gあたり1円
明治の1円は現在の20000円くらいだといわれている。
計算を分かりやすくするために単位を揃えよう。
今の純金が3gで30000円
明治の純金が3gで2円=40000円
明治の純金は1gあたり40000÷3=13333
約13000円となる。

であれば、もし純金1両の重さなら、1両37.5gなので、13000×37.5=487500となり、純金37.5gは約487500円となる。10匁=1両だから、487500÷10で48750円=1匁となる。
1匁=100厘だから48750÷100で
487円=1厘となり、2、3厘とは
974円〜1461円となる。わずかな施しだと記してあるので流石にありえないだろう。
川崎大師は神奈川県川崎市にあり、神奈川県の平均年収は確かに高く、川崎市も神奈川県内では上位なのでお金持ちが多いのかもしれないが、私がどこかでミスをしている可能性が高い。

ちなみに新貨条例では
1厘とは1円の1000分の1となり、
1円=現代日本円の20000円だとすれば、
20000÷1000=20円
1厘は現代の日本円で20円くらいとなり、
2、3厘は40円〜60円となる。
適当な計算だが、我々一般庶民の金銭感覚からすれば、お賽銭の金額として妥当に見える。

ロバート・フォーチュンは1880年くらいまで生きているので、1871年の新貨条例後の日本の貨幣価値などを調べて、当時の単位に改めた可能性もある。もしくは翻訳時か。

この貨幣価値がもし妥当なら、英貨の1ペニーは約40〜60×4となり、160円〜240円ほどになる。
完全に余計な話だが、
12ペニー=12ペンス=1シリングなので
160〜240×12となり
1シリング=1920円〜2880円
20シリング=1ポンドなので
1920〜2880×20となり
1ポンド=38400円〜57600円となる。

ついでなので米の単位も書いておこう。
米は1ごう約150gといわれる。
お酒は1合180mlなので180gだが、これは質量あたりの密度の問題だろう。
10合で1しょう一升瓶は1.8L
10升で1
10斗で1こく
となる。
つまり、1石=1000合となり、約150kg
よく聞くひょうだが1俵=60kgなので
1石=2.5俵
1石の米が収穫できる土地を1たん
1反=300つぼ
1坪=1けん)×2
1間=6しゃく
6尺×6尺だが、1尺=30.3cmなので
30.3×6=約182cm
182×182=33124㎠で約3.3㎡
1坪3.3㎡なので1反=3.3×300となり
990㎡となる。√990=約31.5となり、
正方形にすれば1辺が約32mの田園となる。
ちなみに、1坪は約2じょうであり、畳2枚分の面積だ。
1畳=約1.6㎡なので分かりやすい。
たたみは江戸間で縦176cm横が87cm
だから176×87=15312㎠=1.53㎡
畳の縦が6尺となり
30.3cm×6=約182cm
1尺=10すんなので
1寸=約3.03cm
その10分の1がとなり
1分=3.03mm
更に10分の1がりんとなるが割愛。

江戸時代の日本刀の刃渡りの長さは一般に2尺3寸ほど

つまり、30.3cm×2+3.03cm×3となり
60.6cm+9.09cm=70.5cmとなる。

江戸時代であれば160cmくらいあれば男性は上等だろう。仮に直立状態からの居合だとすれば、1歩踏み出して約1mほど、その際に肩が足首、膝のあたりまで出るので、腕の長さ約50cm。しかし刀を握る分短くなるので仮に40cmとして、刀は鍔元から70cmほどの刃渡りと考えて、100+40+70で大体2m強くらいが居合の間合いになるだろう。
一般的な剣道の場合、開始線は1.4m中心から離れた位置となるので、自分から相手まで2.8mとなる。仮に日本刀だったとすれば、相手が1歩踏み込んだ辺りで居合の間合いに入ることになる。


一般女性の容貌

(前略)
結婚している女たちは、化粧が非常に厳格で、髪には何の飾りもつけず、着物は、派手なものを避けて、地味な材料を選び、顔には紅を用いた形跡は全然なかったが、歯は黒く染めていた。
(中略)
反対に、若い娘たちは、唇に口紅を濃く塗って、歯の白さを目立たせている。頬に紅をさし、濃い黒髪に明るい緋色の縮緬の切れを巻きつけ、それに劣らず明るい色の幅の広い帯をしている。
(後略)

絵で見る幕末日本p98
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

ちなみに、このお歯黒の習慣に対して外国人は女性差別だと文句をつけていたらしい。
もっとも、明治後は近代化のために禁止されていき、ついには廃れた。

これに対してロバート・フォーチュンは梅屋敷という茶屋において、

女将と思われる年増の女が、自分の眉毛を引き抜いたり、歯を黒く染めていた。私の意見を述べれば、そのような化粧法によって、彼女の容貌は明らかに改善されてはいない。たとえ、それが趣味を無視〔既婚婦人の習慣〕されているとしても、また、われわれの持っている審美眼も、すべての点から見て、「日本人に喧嘩を売って」までも、正当だというほど絶対的なものではない。とにかく私に侍った小娘達は、輝くばかりの白い歯を持ち、唇を深紅に染めていた。

幕末日本探訪記 江戸と北京pp85-86
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行

と、評価している。あえて記したということはやはり、思うところがあったのだろう。

ちなみに、アンベールは一般の男女についてかなり好意的な評価をしている。

寺院の腐敗

江戸時代の初期に寺請制度が成立したことで、寺院は実質的に徳川幕府の保護下に入った。これにより、僧としての在り方がおかしくなってしまった。キリスト教に対抗するためだったとはいえ、幕府による民衆支配政策の機関に取り込まれたのだ。こうなると大抵は清貧とはかけ離れた運営形態となる。キリスト教の腐敗も似たようなものだ。その時代の支配勢力と結びついた宗教組織はよく腐敗する

本堂内には正真の仏教僧侶が数人いた。彼らは明らかに、この世でのうまい金儲けを狙って、本尊を拝みに来た無智で信じ易い人達に、この寺にゆかりの本や絵図を売るのに忙しそうにしていた。
(後略)

幕末日本探訪記 江戸と北京p151
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行

もちろん、イギリス人から見た光景なので異教徒に対する偏見はあるだろうが、実際に明治の廃仏毀釈はいぶつきしゃくの理由にも寺院の腐敗が入っているので、あながち一方的な見方とは言えない。

幕末ひとこと雑学

ここではそんなに語る必要のない雑学を記していく。一応、補足が必要なものは簡単にしていく。

・馬がワラジを履いている
・日本は地震の多い国としてすでに有名
・将軍は対外的には大君
・浮かれの蝶という現代でも通用する奇術

これは現代にも伝えられており、YouTubeなどで視聴することもできる。
・江戸で最も高い丘陵は愛宕山あたごやま
・日本人は花が好きでよく庭で育てている
・江戸ではほとんど毎日火災が発生する
毎日は大袈裟だが、かなりの頻度で火災が発生するので、江戸の町内にはいたるところに火の見やぐらがある。家も木造なので延焼がひどい。
・水はあまり清潔ではないが煮沸して飲んだ
・盆栽人口が増えてくる

(前略)
マツ、ネズ、アスナロ、タケ、サクラ、ウメなどは、常に盆栽用に選ばれる植物である。

幕末日本探訪記 江戸と北京p124
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行 

・品質の良い油紙が流通していた
水を弾くので合羽や傘、梱包などにも利用ができる。
・肉屋には鹿の肉があり、場所によっては猿も
・各地への距離は日本橋を中心に測定する
・浅草寺の名物は菊

ここは江戸の近くで、多種類の美しい菊で有名である。われわれが訪ねた時は花は満開であった。イギリスの花屋はきっと、ハンマースミス寺院や、ストーク・ニューウイントンから、はるばる浅草寺の菊の花を見に来て、どんなに目を楽しませたいことだろう。

幕末日本探訪記 江戸と北京p138
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行 

・将軍の服装

大君の衣装は、大きな袖のついた金襴の服を着て、絹紐で胴をしめ、ゆったりとした下袴を着け、それがはいているビロードの靴を隠し、頭には、ヴェネツィア総督の縁なし帽を思い出させる、帽子をかぶっている。

続・絵で見る幕末日本p46
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

・野鳥は大切

日本人は、一般に、野鳥を大切にしている。かれらは、家禽だけしか食用にしない。鶏類は、寒帯地区を除いて、広く増殖されており、日本では、ヨーロッパでよく見られる鶏をすでによくこの地の気候に馴らして、多くの新種をつくり出している。
(後略)

絵で見る幕末日本p52
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

・団子坂の菊人形が有名 
・神奈川の畑

山の畑地では小麦や大麦が穂を出しているし、ソラマメやエンドウの花盛りであった。菜種の花は長崎のように、ここでも山腹の畑で見られたが、花の芳香があたりに漂っていた。

幕末日本探訪記 江戸と北京p188
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行

菜種なたね油は江戸時代では灯火などに使われる一般的な油。だが、主流になったのは江戸時代の話で、それまでは荏胡麻えごまが主流だった。美濃の蝮こと斎藤道三が油売りとして取り扱っていたのも荏胡麻油だ。司馬遼太郎の「国盗り物語」を読んだことある人は大抵知ってる。

・伊豆大島火山活動中
・ボート漕ぎが横浜で流行る
・横浜に虚無僧こむそう

(前略)
悪漢と乞食の中間の連中、門から門へと訪ね歩き、呪いのように聞こえる祈りを唱え、鐘を鳴らして家の中の住人の注意をひき、底なしの袋にお布施をたっぷりもらうまではその場を離れるつもりのないことを告げる。頭には狭い編笠をかぶっているので顔を見分けることができないが、態度はいたって傲慢、お布施の受け取り方もきわめて横暴で、お布施を人間味あふれた恵みではなく、未納の年貢の取り立てか何かのように思っているらしい。

江戸幕末滞在記 若き海軍士官が見た日本pp64-64
エドゥアルド・スエンソン 長島要一 訳
株式会社講談社
2003年11月10日第1刷発行

・外国人は、焼酎と日本酒を混同しがち

外国人の日本開国への認識

(前略)
1854年、再び来航した提督は、米国艦隊をこの港(浦賀)で抑止すべしとの命令を受けている浦賀奉行の提案を無視し、江戸政府に厚意ある強制を加えるため、この港の傍らを通り抜けて江戸湾に入って行った。しかし、民衆の不安動揺を避けるため、首都には入らず、錨を江戸の南12キロのところに下ろした。そして、6週間後の1854年3月31日、彼は、両国の新しい交流を約束した神奈川条約に署名したのであった。

絵で見る幕末日本p73
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

この著者、エメェ・アンベールという人物はアメリカ人ではなく、スイス人であるので特にアメリカ贔屓の書き方をしているわけではないだろう。
だが、西洋人から見て「新しい交流」と呼ぶ神奈川条約つまり日米和親条約日本側に不利な条約であり、江戸幕府の頑なな姿勢は問題だとしても不平等な条約を砲艦外交で結ばせるという行為に後ろめたさを感じていないことは覚えておきたい。

民衆は、自国が力づくで開国させられたことに不安動揺するのではないだろうか。

また、アンベールはこうも書いている。

(前略)
突如、誰もが予想しなかった蒸気を航海に利用するようになると、日本の支配者たちからかれらの辛棒強い努力の成果を奪うことになった。数隻の軍艦が思いがけなく江戸湾に現われたことは、階級精神と民族的自尊心が生んだ、異常な政治的錯乱に対する人類の抗議であった。
(後略)

絵で見る幕末日本p80
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

ここにも書いてあるように、産業革命の産物である蒸気機関は軍艦を進化させた石炭が必要という不便もあるが、いでいる内海を進むことも可能であるし、強度もある砲の進化もしているので、日本の要塞を海から一方的に陥落させることもできる
しかし、人類の抗議とはまた大仰な話である。だが、鎖国に拘り、国内の統制も未熟であると判断されては西洋優位の考えが湧き出してしまっても不思議ではない。
また、日本がキリスト教国ではないということも一因ではあるだろう

そして、

全世界の海を股にかけて活動している現代の蒸気船は、その凱旋戦車隊で、征服した民族、種族、土民を制御していた古代の征服者に似ているが、ただ違っている点は、産業的な自由な現世紀は、文化で征服した諸民族を奴隷の鎖で苦しめることなく、交易とよい賃銀と各種の物質的利益の絆で、かれらを自分の方に結びつけているのである。
(後略)

絵で見る幕末日本p88
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

と、植民地主義に関しては肯定的な見方をしている。だが、それも当然の話で、植民地主義が悪いことになったのは第二次世界大戦後であるからだ。

海外への渡航が禁止されていた江戸幕府政権下の日本では国外の事情を知る術は限られる。外洋航海が可能な大型船舶は違法であるし、洋書では信憑性が不十分だ。直接産業革命がもたらした西洋の変化をオランダから知ることのできた幕府は変化を拒んだ。アヘン戦争によって清が大敗するまで日本人の大多数は西洋の脅威を認識できていなかった
このあたりから「日本を建て直さないと清の二の舞になる」目覚める人間が増えてくる。

この時点では西洋人がその気になった瞬間に日本は最悪消滅するのだ。
海岸付近では蒸気船により西洋勢力が圧倒的に有利なため、戦場は内陸にするしかない上に、銃や砲の進歩も目覚ましいので、平地での戦闘も不利
確かに、西南戦争で政府軍は抜刀隊という剣客部隊を組織するほど薩摩の剣客に手を焼いたのだが、平地での一斉射撃や砲撃に対して近接武器は不利だ。それに、内戦とは違いって物量でも大きな差がある補給の問題も清国を制している以上、その気になれば朝鮮(フランスに限っては朝鮮に戦争で負けている)も利用でき、また、日本の島嶼とうしょを奪うことも造作もないだろう日本にできるのは夜襲やゲリラ戦くらいだ。それでも、もし西洋諸国に一丸となられた場合はどうしようもない。

幕末は本当に日本国存続の危機だったのだ。

このような状況下で愛国心を持ち、日本を立て直すために行動を起こす者たちが表出してくる。
ある者は幕府に見切りをつけ、日本再生の邪魔であると見て倒幕派(幕府を潰せ)となり、ある者は幕府を生かしたまま日本の再生を考える佐幕派(幕府を生かせ)となった。もちろん、どの勢力も一枚岩ではないが。

そして、自ら脱藩(藩を抜けること。重罪。)し浪人となる者すら現れ始めるのだが、浪人に対するイメージはというと、

(前略)
日本の首都のみに見られる最も危険な階級がいる。それはローニン(浪人)と称するサムライの階級に属してふたつの刀を差しているが、武士としての地位を持たない連中である。かれらの中のある者は、立派な家庭に生まれたが、身を持ち崩して、自分の家族から別れた連中であり、またある者は、同じような原因で、国家的な勤務やどこかの大名の下で占めていた地位を失った人々である。それによって生活していた給料を失い、しかも、軍人以外の職業にはからっきし役に立たぬこれらの浪人は、大部分、貧民窟以外に、自分の住所を持っていない。その貧民窟での家賃も、最も唾棄すべき行為によって支払っている始末である。彼のもとに集まってくる連中が、すでに感染している街区に、新しい堕落を持ち込んでいる。かれらは一種の徒党を組み、浪人の頭の厳重な容赦なき統制のもとに服しているため、かれらを、ある家族の復讐や日本特権階級の政治的反目の武器に利用しようとして、血腥いことを企む者、秘密陰謀家どもが策動している。
(中略)
浪人たちは、すべての人々に嫌悪されていることを知っているので、自分の隠れ家から外に出る時には、目のところだけを残して、頭部を全部、広い布でつくった頭巾で隠している。

絵で見る幕末日本pp207-208
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

多分に恨みのこもった書き方だ。実際に斬り殺された者も存在するし、命を狙われる側の外国人としては無理もないとは思うが。

砲艦外交に威圧されて国内に外国人を招いてしまった状況では、外国人を殺しても日本の立場を悪くするだけだ。

通常であれば。

だが、当時の日本はあくまで徳川の天下であり、外交の責任は江戸幕府にある。よって所属不明の浪人が起こした不祥事は幕府の責任なのだ。それはどこかの藩が起こした場合も同じだ。江戸幕府は事実上の日本の支配者であるので、「〇〇藩が勝手にやったことです」とは言えない
勿論、当該藩に対して追及はあるのだが、それでも江戸幕府にも追及がかかる

浪人は非常に特殊な立場なのだ。彼らの行為は時と場合によって大きな意味を持つ。
例えば、浪人が手当たり次第に外国人を斬ると、幕府は立場を悪くし、幕府の力を削げる側面、幕府はあくまで浪人から外国人を守ろうとするため、浪人を言い訳に交渉を引き延ばせる
また、狙われる危険がある以上、外国人も無茶な交渉ができなくなるし、実際に交渉が引き延ばされたこともある。

ここで尊皇攘夷について簡単に解説しよう。

尊皇はわかるだろう。だが攘夷とは?

攘夷とは夷狄いてきはらことである。
夷狄とは野蛮人などをさす中華思想の概念だ。中華思想とは中国中心にものを考え、中国以外を蔑視した思想であって、朱子学にもその要素はある。だから外国人は当然に夷狄ということになる。古代ギリシャで言えばバルバロイ(ギリシャ語を話せない連中)というような意味となる。
そして、朱子学は江戸幕府の公式学問なのだが、徳川御三家の1つである水戸家が発展?させた水戸学のおかげで、尊皇攘夷思想の旗印となる。
確かに、江戸幕府の徳川は征夷大将軍であるわけなのだが、その地位はあくまで天皇の権威の下にある
だが、鎌倉以降、征夷大将軍は朝廷の上に立ってきた。これはもはや伝統レベルだったのだが、水戸学は日本の正統な支配者を天皇であると結論づけてしまった
そうなれば、天皇を蔑ろにして権力を振るっている江戸幕府ないし将軍は悪となってしまう。そして、その将軍家は外国人つまり夷狄に日本の侵略を許している

当の外国人からすれば、非キリスト教国であり野蛮な日本に対して、かなり寛容に接しているつもりだ。
文明をもたらし、貿易で生活まで豊かにしている。同胞を斬り殺されても下手人を罰して、賠償金や便宜べんぎだけで許している。

と思っているだろう。

だが日本人の感覚では、強制的に開国させられることも、次々とヨーロッパの国が押し寄せてくることも、外国人が我が物顔で街を歩いていることも侵略そのものなのだ。

もともと諸藩を締め上げるだけの幕府にはうんざりしていた。その上、海外の脅威に対して国防を訴えても握り潰され、挙げ句の果てには安静の大獄だ。

(前略)
権力掠奪者家康によって創設された日本の政治機構は、十頭会議によって支配されたヴェニス共和国の暗黒政治を思わせるものがある。その暗黒の度合いは、ヴェニスの場合ほどひどくないとしても、あらゆる恐怖手段を行使している。あらゆる管理機構において、公然と組織されたスパイ網が陰険で執拗な活動を行なう秘密政治は、暗黒の壁に、追放、暗殺、大量処刑の歴史を塗りこめている。

絵で見る幕末日本pp236-237
エメェ・アンベール 茂森唯士 訳
株式会社講談社
2004年9月10日第1刷発行

1615年以降、ほぼ完全に日本を支配していた江戸幕府の責任は重い。
外敵から日本は守れない、天皇は蔑ろにしてきた。
そして、前述の水戸学による尊皇攘夷の思想はどんどん強くなっていく。暴走する者が出てもおかしくはないのだ。ちなみに桜田門外ノ変の犯人のほぼ全てが、元水戸藩士の脱藩者である。

幕府の辛いところは、攘夷が無理だとわかってきても、朝廷から攘夷をせっつかれてしまうと、流石に無視できないところだ。尊王論の機運が高まる中、ヨーロッパ勢力には威圧される。そして各藩も段々と統制できなくなっていく。
下記の引用は少々言い過ぎであるものの、本質に迫っている。

(前略)
徳川幕府の政治は、貧しい者にはまことに冷酷無残で、市民階級には尊大であり、物価が天井知らずに騰貴したり、土地の配分が不公平であったり、日常生活がたえず脅かされるに至っても、みすみすそれを放任してなんらの対策をも講じなかったので、その終わりを告げたのであった。

続・絵で見る幕末日本p79
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

江戸幕府は商業に関する政策が苦手というレベルではなく、素人以下であった。もちろん幕府関係者の中には優秀な者も少なくはなかった。だが、朱子学の商業蔑視の思想に囚われていた上に、商取引や海外事情への無知が祟り、商業で幕府財政を立て直そうとする者は潰され、逆に農業を偏重する者が評価されていた。
経済成長を考えないので、全体の富を増やすのは難しい。米を増産しても米の価値が下がるだけで幕府の財政は好転せず、商業は無理なので結果、緊縮財政にするしかなくなる。緊縮財政で最も被害を受けるのは中流以下となり、町人の不満も溜まる。幕府の対応は頭ごなしであるので、余計に支持は失われていく。革命などは起きないものの、倒幕の下地はできていく。

長崎、箱館、神奈川の3港は、1859年7月1日(安政6年6月2日)に、どうあっても、外国貿易のために開かれるはずであった。ところが、この日、幕府はヨーロッパとアメリカの新しい友好国に対して、神奈川の代わりに、明らかに彼ら向きに新設した港を提供して、吃驚させた。その港は、近隣の村の名をとって横浜と呼ばれた。この村はもの寂しい、細い土地の先端にわずか数軒の漁師小屋があるのみで、その土地は、北西から南東に広がり、沼地と海の間にはさまれ、あの弁天様の祀ってある神社から、ペリー提督が条約を締結した岬にまで及んでいる。

続・絵で見る幕末日本p294
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

西洋人からすれば、幕府はこの期に及んでも西洋人と正面から向き合う気はないように見える。現代の私たちからすれば、神奈川から横浜に開港地を移したことで、横浜が開発されて栄えたことは理解できる。
だが、幕府はなにも横浜を開発して栄えさせることが国益だと考えたから、開港地を移したわけではない。あくまで外国人を封じ込めるために、東海道を避けたのだ。そもそも1854年に開国させられたにも拘らず、日本人と外国人の接触を避けたがっていた。確かに半ば強制的に結ばされた条約とはいえ、土壇場で覆すような真似をすれば、諸外国からの不興を買う
ただでさえ日本は立場が悪いので、賢明な行為とは言えない。だが、この頃の幕府は、ある意味で中間管理職のような苦しい立場にあったことも意識しておく必要がある。

各国の領事団は、条約の正式条文に異議を唱えずにいなかった。外交団(公使たち)は江戸において、異議の申し立てを行なった。しかし、この紛争の解決を待たずに、外国人貿易商は商品の陸揚げを行い、「何よりもまず、商売、商売」といい合いながら、横浜をわが物顔に占領してしまった。

続・絵で見る幕末日本p296
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

この後、外国人は居留地で土地を借り、それぞれの用途に合った建築をするのだが、土地の売買はできなくとも使用権自体は取引できてしまうのだ。
また、商取引などに関しては、商業の発展を嫌った幕府と比較して、一日の長どころか数百年分の差ができてしまっている。金儲けの方策など簡単に見つけだしてしまう。
有名な話であるが、江戸時代の日本は銀に対して金の価値が低かった。そこに目をつけた外国人は自分の銀と日本の金を交換した。無知であった日本も悪いのだが、大量の金が国外に流出することとなった。
そして、海千山千のヨーロッパ人は、

無頼の山師の何人かが自分の土地を売りに出し、それを現金に換えて、最初の建設資金とか、商売の資本に当てた。急にできた金だから、別の使い道を知らなかったわけである。したがって、横浜には、土地が二つの範疇に分けられた。その一つは、無制限に譲渡し得る土地であって、急速に市場価値の騰貴してゆくものと、もう一つは、領事がその権限で固定してしまった土地で、これは地価暴騰の恩恵にあずかれない土地である。
土地の投機売買は、しばらくの期間、自由地区で行なわれる取引の第一位を占めていた。

続・絵で見る幕末日本p300
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

という事態を招いた。流石は強力な隣国や国内の経済競争で切磋琢磨しているヨーロッパ人だ。投資、投機などでも、当時の日本人(一般的な幕府役人)の想像力の及ばぬ先にいる。
幕府は幕府なりの正しい世界で生きてきたので対応は後手に回るしかない。
だが、幕府も何も考えていなかったわけではなく、

幕府は神奈川港の代わりに、横浜を当てるようにという意向を間もなく明らかにした。だが、神奈川港を閉鎖することは、幕府にとってできない相談であった。神奈川港が、二キロにわたって大街道(東海道)に沿っているためである。反対に、横浜を第二の出島に変えるのは容易なことであった。それは、幅の広い運河〔クリーク the creek〕を掘って、元村Omoura(現在の元町)のはずれから、ヨーロッパ人市街地を切り離して孤立させたのである。

続・絵で見る幕末日本p304
エメェ・アンベール 高橋邦太郎 訳
株式会社講談社
2006年7月10日第1刷発行

そして、出入口を取り締まることで、幕府はなんとかこの居留地を監視下に置いた
しかし、当のヨーロッパ人にこのような評価をされてしまうということは、幕府にとっては良いことではない。心象を悪くする国も多いからだ。

幕末の各勢力の関係など


それぞれの勢力の関係を簡単に見ていきたい。ここで取り扱うのは大きな勢力だ。

幕府と諸藩、浪人
諸藩の押さえつけが効きにくくなっている。
幕府が対外折衝に苦労しているのに、外国人と問題を起こす藩や浪人がいて本当に困っている。水面下で幕府の転覆を企てる者や、幕府に不利な思想を振り撒く者を弾圧してきたが、かえって逆効果になってしまっている。浪人との斬り合いで殉職した者もいる。また、列強との貿易で力をつけている藩もあるので、脅威を感じている。
幕府の構成員の中には、もし内戦が起これば列強の餌食になるので、ここにきて諸藩との権力の統一を目指す者も現れる。

幕府は、昔は事がある時には、直ちに各藩を統合する権力を持っていたと思われるが、今は強力な各藩が結合すると、幕府を財政困難に陥らせたり、滅亡させることができた。
(中略)
大名の中には彼らの栄誉や官職を、ミカドすなわち天皇から直接得るため、将軍の支配下から自立しようとする者が多少あるらしかった。これらの人々が煽動し紛糾を起こしては、明らかに天皇の従属的立場にある江戸幕府の不利になる風説を流布して、朝廷に忠勤を励んでいた。それらの多くの家来を抱えた実力をもつ大名と、権力を横取りした将軍との間に、長い間繰返されて来た葛藤が、今にも爆発しそうな形勢でくすぶりつづけていた。(ジョン・ラッセル伯宛てのオールコック氏の文章から)

幕末日本探訪記 江戸と北京p246
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行

幕府と列強
アヘン戦争などで列強の強さ知り、天保年間の頃から攻撃的な鎖国政策は控えている。
だが、日本には関わらないでほしいと思っている。幕府の中でも対外政策の意見は割れていたが、追い払う方が優勢だった。しかし、1853年のペリー浦賀来航以降は外圧に押されて開国まで追い込まれている。安政五カ国条約の頃には半ば諦めているのだが、朝廷の手前、攘夷っぽいことをせざるを得ないのが苦しい。しかし、これ以上列強との関係を悪くしたくもない。

こうして諸侯と争う難局にある一方、諸外国と折衝する、将軍補佐の閣老らの職務は、決して愉快なものではない。気が狂ったような憎しみを持った大名やその家来達から、執拗に狙われている外国人の保護に、努力している閣老らの誠実を私は信じている。閣老らが公使館の構内に護衛を置くべきだと、オールコック氏に提案したのは、確かに善意の計らいであった。
さらに横浜の新しい居留地周辺一帯に、所々に監視所を設ける計画を、非難する人々もいたが、結局、私たちを保護するための企てであった。
(後略)

幕末日本探訪記 江戸と北京pp246-247
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行

諸藩と列強
戦争に発展することもあったが、友好関係を築く藩もあった。また、戦争後に友好関係を築く藩もあった。これらの藩が積極的に近代化し、特に軍備を整えた。
諸藩もいきなり倒幕を目指したわけではなく、幕府が使えるか使えないか見極めていた。
しかし知っての通り、統一政府を立てる上で、旧幕府が中心になっては意味がないと考えた結果、最終的には倒幕となった。だが、倒幕するにしてもなるべく激しい戦いにならないようにしなければ、列強の餌食になる恐れがあった。

幕府と朝廷
もともとは朝廷側を押さえつけていたのだが、幕末には勤王、尊王の高まりもあって頭が上がらなくなっている。更に、徳川慶喜は水戸徳川から紀州徳川の一橋家に養子にいっており、朝廷を重んじる水戸徳川出身ということもあって、彼が将軍となってからはますます朝廷に対して恭順的となる。だが、公家達は西洋人を嫌い、孝明こうめい天皇を旗頭に攘夷を要求するので困っている。実際に列強の戦力を知った幕府からすれば直接的な攘夷は無理だと悟っている。


最後に、今後の日本についてのフォーチュンの考えを引用して終わりにする。

発売が楽しみだ。

(前略)
全く封建的な制度が施行されていた当時の日本の状態では、貴族同士が嫉み合うとともに、外国人に対して友好的でない浪人仲間が、常に武装して街路を歩き廻っていたので、私たちを守る職務は楽なものではなかった。ほとんど三百年間、世界から取り残され、鎖されていた日本が開国するために、諸外国と条約締結を協定した閣老たちも、それにともなって遭遇せればならなかった困難と危険を、予知することはできなかった。したがって日本の未来は暗黒に包まれている。この幸福で平和な日本の国が、世界列強の仲間入りをするための代償として、遠からず、心配されている戦争や、それに付随するあらゆる惨害は避けられないだろう。

幕末日本探訪記 江戸と北京p247
ロバート・フォーチュン 三宅 馨 訳
株式会社講談社
1997年12月10日第1刷発行


余談だが、これだけの慧眼を持つロバート・フォーチュン氏は、植物のことになると途端にやらかしてしまうのである。

大江戸鳥瞰図

画面左側手にに描かれているのが江戸湾であり、帆が1つの北前船らしき船がみえる。
さらに左奥には
御ダイバと記されている。
中央奥に富士山があり、その手前の水に囲まれたところが江戸城。

横濱明細全圖  

この向きだと分かりにくいがら5時の方向が北だ。
なのでこちらから見て左側が外国人区画で右側が日本人区画となる。

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