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小説【間法物語】2 サトルともう1人のサトル

【間法物語】
日本語人が古来より持っている「魔法」がある。 それは「間法」
「間」の中にあるチカラを扱えるようになった時、「未知なる世界」の扉が開かれ、「未知」は、いつしか「道」となって導かれていく。

「間法使いへの道」を歩き始める僕の物語。
【PROFILE】
イエオカズキ 「間」と「日本語」の世界を探求し続けるストーリーエディター。エッセンシャル出版社価値創造部員。


僕の名前は、『サトル』。

平均的に見て、いたって普通。ルックスも、学力も、まあ、ずば抜けて良くもないけど、悪くもない。家も普通。両親は健在で、妹が3人。6人家族の長男で、とにかく、顔・名前・家族といった、外側の情報部分については、特別、人と違いはないはずだ。

人と違うところがあるとすれば、まあ、これは、実際に、他の人に確認したことがないから、自分で勝手に思っているだけではあるんだけど、内側の情報部分についてだ。

僕には、幼いときから、自分の中に、もう一人の『さとる』がいることがわかっていた。
確か、五歳か、六歳の頃だったと思う。家族みんなで買い物に出かけていて、たまたま僕はひとりで留守番をしていたようだ。
暇を持て余して、いつの間にか、何の気なしに、鏡をジーッ見つめている僕がいた。
しばらく、鏡を見つめていると、急に、鏡の前にいる僕は、一体、どこにいるんだか、わからなくなってしまった。この部屋も、この家も、全部の景色が、今までの記憶を含めて、何だか、全く知らない世界のように、見えてきてしまった。
ボクという、何かとてつもなく大きな存在を、名前とか、身体とか、洋服とか、関係とか、家族とか、いろいろなラベルを貼ることで、小さく小さくして、僕という、この鏡の前にいる子供の顔と身体の中に閉じ込めているような感じだ。

何だか変な気になってきて、さらに僕の顔を長い間、じっと見つめていると、どんどん、鏡の中にいる顔が、全く別人の顔のように見えはじめてきた。
そのとき、「こいつ、誰だ?」って、ココロの中かな、頭の中かな、どっちか忘れてしまったけれど、僕の内側から、いきなり話しかけてくるボクがいた。でも、なぜか、不思議な感じはしなかった僕は、その話かけてくるボクのコトバを、ただ、自然に聞いていた。
そいつが、もうひとりの『さとる』だった。

それから、時々、『さとる』は、僕の生活の中に、僕の中から現れるようになった。特に、僕が、優柔不断でどっちを選んだらいいかわからないときとか、さりげない嘘を言っているときに。ちょっぴりシャイな男の子だった僕は、やりたいことを素直にやりたいって言えない癖があって、例えば、遊園地なんかに家族と行って、みんなが帰ろうというときには、本当はまだ遊んでいたくても、文句も言わず、素直に全体の意見に従うようなヤツだった。

「~もっと遊びたいのに~」
さとるは、そんなときに、すかさず出てきて、僕に冷たいコトバを投げかける。寿司なんかを食べてて、キレイに食べないと勿体無いから、ウニとかイクラとか好きなものを最後に残して、嫌いなネタから片付けようなんて、優等生的な行動を僕がしていると、さとるは、つとめて静かに「・・・好きなものから食べたら・・・」とアドバイスをしてくる。
とにかく、さとるは、いつでも冷静沈着、思慮分別のあるヤツなのだ。

しばらく、『さとる』と付き合いだすうちに、『さとる』は、女の子のような気がしてきた。常に明快で、全く揺らがないシッカリした芯の強さは、当然、男だと思っていたんだけど。こんなに女々しくて、繊細で、優柔不断で、優しいのが、男の僕だとすると、こんなに男らしくて、強くて、シッカリしていて、ドッシリしている『さとる』は、女ということなのでは?

何せ、僕とは正反対の意見と考え方を持っているボクなのに、声だけは全く僕とボクは同じなのだ。そもそも、自分の内側の声というものは、全部が全部、同じトーンで聴こえてくるから、さとるの声だけでは、男だか女だか、若いのか年寄りなのか、サッパリ見当がつかなかった。
そんな疑惑が日に日に大きくなり、僕はいつの間にか、「さとる」のことを『サッチャン』と、呼ぶようになっていった。

✴︎

サッチャンは、厳しい。サッチャンには、嘘というものが一切ないから。
僕が現実から逃げている、まさにその『核心』を、『確信』を持って鋭く言い放つその態度が、だんだん僕は面倒くさくなって、サッチャンとは、たまにしか付き合わないようになっていった。
サッチャンのコトバが聴こえそうになると、微妙に無視したり、流したり。だって、サッチャンの言うとおりにすると、男としての面子が立たなくなるからだ。あまりにも本音だったり、それを言ったら元も子もないでしょということだったり。
子供にだって、メンツはあるのだ。
本音ばっかり言ってるようじゃ、子供同士の人間関係も、面倒なことになるのだ。こっちが相手に嫌だなあということを伝えると、相手からも自分が嫌だなあと思うことを、ハッキリ言われちゃうしね。

サッチャンは、生まれついての詩人だから、コトバはいつも『詩的』になる。残念ながら、僕には、その才能は、無いようだけど。僕らの場合、当然のことながら、鋭く的を得たサッチャンの指摘は、常に『私的』なものなのだけど、その詩的なコトバが、僕のココロには、良くも悪くもとっても深く染み渡る。
ときどき、いいフレーズがあると、サッチャンのコトバをそのままパクって、僕は、友達に雄弁に語りかけたりしてみるが、いつも反応は鈍い。やっぱり、サッチャンとは違うのか、僕のコトバは、他人のココロには、染み渡っていかないようだ。

✴︎

僕には、ずっと前から、心ひそかに、なりたいものがあった。

それが、『バランスジェネレーター』だ。
実は、バランスジェネレーターとは何か、僕にはよくわかっていない。
どんなものかさえわからないんだけど、ましてや、どうやったらなれるのかなんて、全然わからない。きっと、透明人間のようなものだと予測はしてみるんだけど、全く確証はない。だけど、もしもなれたとしたら、と想像するだけで、とってもワクワクするような気がする。変だよね。確かに変だ。
相当おかしい。どんなものかもわからないのに。
でも、なりたいんだから、しょうがない。
バランスジェネレーターという、ただコトバの響きに、どこか、魔法のような魅力を感じるんだ。そもそも、僕にとってのバランスは、自分を犠牲にして、本音を言わず、表面を取り繕うだけの、決してカッコイイものではないのだけど、バランスジェネレーターというコトバになると、ちょっと新しい漫画のヒーローっぽい、急にキラキラした光のような響きが感じられたんだ。

「よくわからないからこそ、サトルには、バランスジェネレーターになれる資格がある。」サッチャンは、それこそ、よくわからない慰めを言ってくれるが、僕にとって、そのコトバは慰めだけではなくて、勇気のコトバでもあった。

一方的に偏っていることに、昔から居心地の悪さというか、どこか抜け落ちているような感覚を覚えることが、僕にはあって、「絶対にこれはそうだ」的な、直線型の強い意見に、内容は全く別にして、妙に過敏な反応をする自分の癖を感じていた。
たとえば、ひとつの事件をひとつの側面から取り上げて「本当に悲しい話ですね」みたいに結論づけてしまうテレビのニュース番組とか、教科書をそのままなぞって読み上げ「この公式はこうなっています」というような学校の授業とか、とにかく、『絶対』や『断定』というトーンの態度を見つけた瞬間、反射的に毛嫌いしている僕が常にいた。

およそ世の中、「左か右か」にこだわった話になりがちだけど、そもそも宇宙に行った瞬間、左も右もないのにね。
「男はこう、女はこう」的なことを言う前に、まずは両方とも、同じ人間なのにね。

鏡に映っている自分の顔に、後ろから手鏡を当てると、手鏡に自分の鏡の顔が映っていて、鏡には、手鏡の中に映っている自分の鏡の顔が映っていて、その手鏡には、自分の顔が・・・・・・
何だか、無性に怖くなってくるというか、目がチカチカして、胸の当たりが気持ち悪くなってきて、せいぜい、鏡と鏡を5回行ったり来たりすると、限界だ。

するかしないか、正しいか正しくないか、どっちがいいかわるいか・・・どっちがいいかということを断定するのではなく、どっちでもいいということを断定するのだ。すると、次の次元が現れてきて、どっちでもいいを断定するかしないかではなく、それさえもどっちでもいいということを断定するのだ。・・・とわけのわからないことを考え始めると、合わせ鏡の様な世界におちいっていき、途中で断念して、考えるのを放棄してしまう。

男でもあるし、女でもある。それこそが、絶対である。
左という方向があるならば、右という方向もある。それを断定する。
しばらくして気づいた。『絶対』が嫌なわけではないと。『断定』が悪いわけではないと。
『絶対』が嫌だったのではなく、絶対の『場所』に違和感があったのだ。
ひとつのベクトルを強く断定すると、それとは別のベクトルの断定も生まれてくる。
『断定』が悪いわけではなく、断定の『範囲』に異和感を持ったのだ。

いつも、どっちつかずの自分が嫌いだった。僕のこの八方美人の性格。あいつの言うこともわかるし、こいつの言い分もまあわかる。
僕ら生徒のスタンスとしてはこうだけど、先生の立場も理解できるし。
「おまえの意見はどっちなんだよ?」
このあたりの質問が、僕は一番苦手だった。うまく立ち回らないと、どっちつかずということがバレてしまうから、細心の注意をして、全体的な方向性の文脈を読み、いろいろな人の顔色の様子も判断しながら、まあ可もなく不可もなく、ある程度、社会的常識に沿った線を導き出さなくてはいけない。このあたりのテクニックを、僕は、小中高校という、社会の場で、磨き続けた。
とにかく、誰も困った顔をしないように、表面上を取り繕うことが、僕にとっての、バランスというテクニックだった。

「最低の方法を知るという意味で、テクニックを磨くことは、バランスジェネレーターにとって、最高の修業だよ。」
そうやって、サッチャンは皮肉に一瞬聞こえるようなコトバで、僕を元気づけてくれていた。サッチャンのコトバがあったから、僕は、何もわからないままにもかかわらず、バランスジェネレーターへの思いを失わずにいることが出来たんだ。

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もしも、「魔法」が使えるとしたら、なりたいものになれるはず。そしたら、僕は、バランスジェネレーターになりたい。


(つづく)

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想いを込めて作った書籍を応援してもらうことに繋がり、大変嬉しく思います。 また本が売れなくなっているというこの時代に、少しでも皆様にお伝えしたいという気持ちの糧になります。