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Traveler's Voice #15|舛井岳二

Traveler's Voice について

Traveler's Voice は特別招待ゲストの方からエスパシオに泊まった感想をインタビューし、読者のもとへ届ける連載記事です。この企画の目的は”自分ではない誰か”の体験を通して、エスパシオを多角的に知っていただくことと、ゲストが日頃行っている活動を合わせて紹介するふたつの側面を持っています。ご存じの方も多いと思いますが、エスパシオは「いつか立派な観光ホテルになる」と心に誓った山口市にあるラブホテルです。この先どんなホテルに育っていくのか、まだ出発地点に立ったばかりですが、この企画を通してゲストの過ごし方や価値観を知り、計画にフィードバックしたいと考えています。インタビュアー、執筆、カメラマンを務めるのは「エスパシオ観光ホテル化計画・OVEL」を進めているプロデューサーの荒木です。それではインタビューをお楽しみください。


ゲスト紹介

Travelers Voice 第15回目のゲストは舛井岳二ますいがくじさんです。岳二さんは萩市・大屋窯で12年間の修行を経て、2021年から洞春寺境内に陶芸アトリエ「水ノ上窯」を構え、日々作陶に勤しむ陶芸家です。今回は配偶者である明奈さんと泊まりにきていただきました。NY timesの記事「2024年に行くべき52ヶ所」で取り上げられた陶芸家さんということもあり、さまざまなメディアで彼の活動について知ることができます。なので、今回のトラベラーズボイスではどのメディアも聞かないであろう深層に潜り込んだインタビューに挑んでみたいと思います。


岳二さんが泊まったお部屋紹介

岳二さんに宿泊していただいたお部屋は502号室です。大きなラグジュアリーソファが特徴のツインベッドルーム、エスパシオで最も広いプレミアムツインとなります。


インタビュー

Araki:おはようございます。今日はご夫婦で宿泊していただきありがとうございます。あいにくの曇り空ですが薄暗く照明をセルフコントロールしていて、すごくムードのある空間になっていますね。なんだろう、ふたりの暮らすリビングに招かれたような感覚です。まるで今日はもうあくせく活動するのをやめてまったり過ごそうと空間に提案されているようですね。今のふたりのくつろぎ具合を見ると聞くまでもないような気もしますが、ここで一晩過ごしてみていかがでしたか。

Gakuji:このだらけっぷりを見たらわかる通り、環境にどっぷり支配されています 笑。昨晩はこの部屋で森田菜月さんといろいろ話せたことがぼくたちにとってファーストサプライズだったんですけど、なんと言ってもさっき目覚めたとき、窓から見える薄暗い風景にめちゃくちゃ感動してしまって、今はまだその余韻の中にいます。インタビューしながら朝ごはん一緒に食べませんか 笑。ようこそ我が家へ、舛井岳二45歳です。

Araki:そうしましょう 笑。自作の食器も持ってきてくれたんですね、楽しみ尽くそうとする貪欲さがすごい、ありがとうございます 笑。それにしても曇りのエスパシオがこんなに幻想的だとはぼくも驚きです。自然光が雨雲にディフューズされてすべての影がやわらかく、えも言われぬ心地よさですね。ってぼくが感想言ってる場合じゃないけど、この空間に居るとおふたりが感動している理由がよくわかります。岳二さんはこの辺りに住んでいるんですか。

Gakuji:そうです、完全地元です 笑。たぶんバルコニーに出たら実家が見えます。12年ほど萩へ修行に出ていたので萩の人だと思われがちなんですけど、山口市この辺り出身です 笑。だからエスパシオは28年前の開業当時から知っています。昔のことだからあまり覚えていないということにしますけど、何度かお世話になったような記憶があります 笑。

Araki:へえそうなんですね、当時のエスパシオはどんな感じだったか覚えていますか。

Gakuji:あの頃、山口ではラブホテルって木造戸建タイプが主流だったと思うんですけど、エスパシオはビルディングタイプということもあって都会的で、地方出身のぼくからするとエンタメ感が強くて衝撃だったことを覚えています。当時はあれですよね、チェペルココナッツみたいにリゾートホテルっぽいものが流行っていましたよね。

Araki:世代の問題ということにしておきますけど、ラブホめっちゃ詳しいですね 笑。やたらと非日常とか言われ出したのもそのころかもしれませんね。岳二さんは非日常をどのように受け止めていますか。

Gakuji:たしかに世代の価値観によることかもしれませんが、非日常については昔からよく考えています。萩で修行していた12年間は小屋に篭りっぱなしで、ひたすら作陶する毎日でした。住んでいるのもその小屋の中で、景色の変わらない環境で生活していたから非日常に飢えていたのかもしれませんが、どうすればこのルーティン化した日常のなかに非日常を取り込むことができるのか、作陶しながら日々そのことばかり考えていました。そうそう、そんなあるときぼくに気づきを与えてくれる出来事があったんですけど、萩は観光地なのでときどき旅行客を案内する機会があります。小屋からもそもそ這い出てきていつもどおり街を案内しているときに、何の前触れもなく旅人の視点に同化した瞬間があったんです。その時ものすごく心が躍ったというか救われたというか、そういう突然空から降ってきたような体験を通して、ああなるほど日常と非日常を切り替えるためのスイッチは自分の中にもあって、意識をコントロールすることでいつでも非日常に向かうことができることに気づいた瞬間だったんですよね。今それをうまく出来ているわけではないけど、どこかでそういう自分と環境との関わり方に憧れているのだと思います。

Araki:なんだか修行僧のようなコメントですね 笑。でもたしかにそうかもしれませんね、外部環境ではなく意識をコントロールすることで見える景色が変わるのかもしれません。瞑想も同じようなことだし、ちょっとやばい方法だと薬物もそのひとつかもしれませんね 笑。非日常は異なる日常に身を投げ出す行為だとぼくは考えているんですけど、人間は本能的に外部刺激から興奮を得ることで”生きている実感”をつかみとっているような気がしています。偶発とか偶然もそのことに関係していると思いませんか。

Gakuji:そうですよね、これも修行時代に学んだことなんですけど、同じものを1000個とかいうレベルで作り続けていると、ひとつひとつ作っているにも関わらず、1/1000・2/1000・3/1000・・・というようにその時々を必然的に捉えるようになってしまうんです。そのように目的から遡行する必然性ではなくて、偶然性に晒されながら目の前で起こる現象にひとつひとつ丁寧に向き合いたいという想いがあります。1/1000ではなくひとつひとつ個別の積み重ねが結果的に1000になるような、ものづくりにおいても人生においても、そういう感覚で生きていきたいと考えています。そのほうが楽しいに決まってるじゃないですか 笑。

Araki:なるほど、岳二さんは生きていることの実感を噛み締めるために、非日常や偶然性に刺激を求めているんですね。その姿勢がものづくりにも表れていて、もしかするとそのために窯を自作しているのでしょうか。

Gakuji:そうだと思います。陶芸は「自分・土・道具」この3つが絡み合うことで作品化されます。その道具のひとつに窯があって、これが最も偶発性を呼び込みやすい道具なんです。特に薪で火を焚べる窯は人が微細にコントロールできる領域を超えているので、そこに魅力や可能性が詰まっています。とにかく目が離せなくなるんです。もしかするとぼくにとって結婚もそれと同じようなことで、意識していたわけではないけど生活の中に圧倒的コントロール不可能な”窯”を持ち込んだのかもしれません 笑。

Araki:えっ、それって明奈さんのことですか 笑。コメントしづらいけど、毎日刺激があって楽しい!ってことにしておきます 笑。対話するなかで分かってきたんですけど、岳二さんはコントロールの枠を超えた先にあるものを求めているとも言えるし、偶発性を内包したいという極めてプロセス指向であるとも言えます。目的に捕らわれずにプロセスの質に拘る作家なんでしょうね。でもそうなると疑問があって、偶然性を内包しようとする行為もコントロールの一部と言えるのではないでしょうか。

Gakuji:その通りだとおもいます。偶然性にも程度の問題があるので許容できる範囲を無意識にコントロールしているんだと思います。でもそれは当然のことで、コントロールを働かせないと全てが破綻してしまいます 笑。陶芸もそうだし、結婚など人生においてのあらゆる”選択”は許容できる偶然性を選び取る行為だと考えていて、おそらくぼくが求めている偶然性はGIFTのようなものだと思います。

Araki:なるほど、GIFTのような偶然性っていいですね。そうそう、ふと思い出したんですけど、知覚心理学者のギブソンが提唱した「アフォーダンス」という概念があります。モノに導かれ行動が誘発するという考え方です。それに倣って考えると、コントロールしているつもりがモノにコントロールされていることって、陶芸においてもあるんじゃないかとふと思いました。何を言いたいのかというと、工芸などの技術継承って、実は作品を残すことよりも道具を残すことのほうが重要なんじゃないかと考えています。人は道具を見れば自ずとそこから作り出せるものを想像できる能力が備わっているので、道具さえ残しておけば作品はいつでも再生可能な気がしています。

Gakuji:たしかにそういう部分もあると思います。でも陶芸においては道具の外側にあるに「土」というマテリアルと、それを作り上げる「自分」という存在があって、そこを再生させるためには道具ではない伝達方法が必要です。それと、道具にも身体性が伴うものとそうでないものがあります。身体性が伴う道具は体の延長のようなものなので、手に取ることで使い方を再生することができますが、そうではない機械のようなものからはおそらく再生することができないと思います。まあでも、聞かれるとつい答えてしまいますが、ぼく自身は継承とか伝統にはあまり興味はありません。ただ、継承とは違った意味で道具を作ることには関心があります。歴史の積み重ねで今の道具があって、その道具に無自覚にコントロールされながら作陶することに違和感を感じはじめています。もしかすると、異なるかたちで歴史が積み重なっていれば、とうぜん今とは異なる道具になっていて、その道具を使って作陶すれば今までなかった新しい喜びが得られるような気がしています。なので、思考実験的ではあるけど、縄文時代まで遡って道具を作り直すようなことも考えています。

Araki:それって音楽に例えると現代音楽と同じような考え方だと思います。彼らがやっていることはドレミファ音階が生まれる前まで遡って、あったかもしれない新たな音楽の歴史をつくりあげる表現形態です。さっき話してくれたこととも繋がりますが、歴史って偶然の積み重ねでできた結果論的な事象にすぎないから、出会う偶然が異なれば自ずと今とは違った歴史が形成されます。これってサイエンスでいうところの多世界解釈から導き出された価値観ですよね。でも、岳二さんはその道具を手段として扱うのではなく、作陶の喜びを得るために使いたいということですね、そこになんだか個性を感じます。

Gakuji:ぼくは今のところ作りたいものが明確にあるわけではないので、さっきも言った「自分・土・道具」これらのバランスを組み替えることで陶芸の可能性を探っているのだと思います。でも最近気がついたことは、この3つを取り囲んでいる外部環境から受ける影響の大きさです。陶芸家は山に篭ってできるだけ情報量を減らして作陶に没頭するイメージが強いと思うんですけど、ぼくが今アトリエを構えている場所は、こちらの都合とは無関係にさまざまな人が訪れる洞春寺のなかにあります。いろんな人が訪れることで偶然性に晒されるという単純な話ではなく、偶然性が飛び込んでくる”心の構え”が備わることに意味があるような気がしています。心をつねに穏やかに開いた状態を保てることで、自ずとできあがる作品の質に変化が生じます。でもよくよく考えてみれば、あらゆる創作活動は過去へ遡ればそのようなもので、当時の作家はみな自然を含むあらゆる他者に囲まれ活動していたのではないかと考えています。つまりプライベートが進んだ近代以降、人は意識的に心を閉ざすようになってきたのかもしれません。洞春寺にはそれが無いんです。

Araki:心をつねに穏やかに開いた状態、それはつまり偶然性が飛び込んでく心の構えだと、、、なるほど環境は偉大ですね。そうそう、ヘッドホンで音楽を聴いているときに同じようなことを感じました。作曲家って楽器の音しか聴こえない環境下で創作しているわけではなく、生活音やノイズにまみれながら作っていますよね。とくにクラシックは時代的にその要素が強いと思っていて、環境から切り離した楽器の音だけを聴くことの意味はどこにあるんだろうって考えたことがあります。

Gakuji:メディアに録音された音楽はたしかにそうですね。でもぼくのやっている陶芸は物質そのものなので、作陶しているときに取り囲んでいる外部要因も器のなかに溶け込んでいるように感じています。日本はとくに食器を手にとる文化があるので、作家の身体性やそれを取り囲んでいた環境が使い手に伝わりやすいと思っています。

Araki:なるほど、陶芸ってセクシーだなと前から思っていたんですけど、それは作品から身体性が読み取れるからなのかもしれませんね。ではでは、身体感覚的にそろそろクロージングに向かうべきではと感じているんですけど 笑、今回の滞在のために岳二さんが食器を持ってきて、明菜さんが花と花器を用意してくれました。並べてみて3人共通の感想が岳二さんの食器はこの空間に合わないなってことになりましたが 笑、器をつくる上で、置かれる空間をどのように想像していますか。

Gakuji:それも作陶場や住んでいる環境に依存していると思います。でもここにきて感じたことは、ひとそれぞれ色んな生活空間があって、ここに合う器をぼくが作るならどういったものが良いのだろうと想像するきっかけになりました。でもその一方で、環境に合わせるのではなく自分で特殊な環境を想定してつくることにも意味があると考えていて、こんなに異文化が混ざり合う以前はそもそも世界はそうなっていたのだと思います。さっき話した道具を作り直すことと関係していますが、作家はただひたすら作りたいものを作ればよくて、その後どのように空間に馴染ませるかは陶芸とは異なる分野の人の仕事だと思っています。

Araki:なるほど、同意します。ぼくは、合う合わないという選別をするために能力を発揮するのではなくて、異なるものを混ぜ合わせるためにクリエイティブするように心がけています。たとえばこの部屋のテーブルはリノリウムという北欧のマテリアルで作られていますが、岳二さんが持ってきた和食器をこの空間に馴染ませるためには、テーブルと食器の間に和洋折衷的なテキスタイルを挟むことで成立すると思います。クリエイティブってそういうことに使うべき能力だと思っています。つまり、分けるのではなく混ぜるために使うべき能力なんです。そもそもオリエンタリズムやシノワズリってそういうことを追求した文化ですから。

Gakuji:インテリアデザイナーはそういう風に考えるんですね。楽しくなってきたから逆に質問したいんですけど、ぼくは NY Times が山口市を取り上げた記事の発表以降、いろんなメディアから取材を受けています。でもその中には杓子定規なインタビューがほとんどで、荒木さんのインタビューは淡々と決まったことを答えるだけではおさまらず、頭をフルに働かせることができるし、なによりインタビューを受けている側にも気付きのような、そうそうさっき言っていたGIFTのようなものがあります。どこでそのインタビュー能力を身に付けたんですか。

Araki:えっ、インタビュー返しきた 笑。特に意識しているわけではないんですけど、ぼくは話してくれる相手と一緒に考えたいだけなんです。話している中で発見があるとなんか嬉しいじゃないですか、ただそれだけです。ぼくがやっているのはインタビューではなく対話に近いんだと思っています。GIFTと言ってくれたのでついでに伝えると、岳二さん、小さい大仏いっぱいつくればいいと思います。まだ何言ってるか分からないと思うんですけど 笑、もうすぐそういう未来がやってくると思います。

Gakuji:大仏?まじで何言ってるか分からないけど、つくる価値あるものならなんでも作ります・・・

Araki:それと、舛井夫妻は9月に洞春寺で公開結婚式をされるそうですが、どんな結婚式になる予定ですか。

Gakuji:まだ計画中なので今はまだお伝えできることが限られているのですが、芸術祭という枠組みの中で「公開結婚式」を行う予定にしています。公開なので、もちろんどなたでも参加できます。詳細が決まり次第、洞春寺の深野住職水ノ上窯のインスタから告知するので、お楽しみに。

Araki:芸術祭として行われるんですね、だれでも参加できるんだったらぼくもお祝いに駆けつけます 笑。ではでは、朝早くからインタビューにお付き合いいただきありがとうございました。このまま帰ると思いきや、夜まで延長されることになったので 笑、引き続きお部屋でゆっくりお過ごしください。それではまたアトリエに遊びにいきますね。

後日談(必見!)
エスパシオの館内アートを手がけているアーティスト「German Suplex Air Lines 」の作品である「高さ6メートルの大仏」が洞春寺に造立されることになりました。なんと、山口県初の大仏となります。この大仏は2023年に札幌モエレ沼公園内のアトリウムで特別展示された作品です。造立時期は「舛井夫妻の公開結婚式&深野住職の生前葬」が行われる2024年9月1日となります。読者のみなさま、メディアのみなさま、必見です!乞うご期待ください。


day of stay:April 2, 2024


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