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日本の「家の中」や「街」が美しくないワケ #008



東京でも大阪でも、そして席が取れない新幹線でも宿泊先のホテルでも、外国人観光客が戻ってきているのを感じずにはいられない。日本が他の国よりも産業的に勝っている分野に観光がある。歴史が長く、古いものが保護され残っている。建造物や仏像のようなものだけではなく無形のものや舞など人間が再現するものも。

世界には歴史が浅い国が意外と多い。誰もが聞いたことのあるスペインという国。スペイン王国建国は1479年だが、現在のスペインは1978年に建国した。ずっと続いているなら同じ国では?と考えるのは、いかにも日本人的思考で実際にはそうではない。

歴史が深く文化保護されているから、神社寺社にしろ富士山のような自然にしろ、日本には誇れるものがたくさんある。だが、はっきりくっきり言うが美しくはない。

これは文化や歴史に問題があるんじゃなく、明らかに現代(人)に問題がある。

■たとえば街中。街にゴミを投げるのが当たり前の国から来た人は「街にゴミひとつない」と驚く・・・・らしい。そういう話は何度も聞いたことがある。

いろいろな国の都市に行くと、日本ぐらいゴミが落ちていない街は結構ある。特殊ではないが『清潔である』とはいえる。

が、clean(清潔)はbeautiful(美)ではない。

外国人が、あるいは日本人でさえ、国内で美しいと感じるのは街ではないことに気がつくだろうか。たとえばとある街角で美しいと感じたことは今年何度あったか数えてみてほしい。「美しい」という言語表現ではなくても、美しいものに接した時に感じる気持ちが湧き上がってきたならそれだ。

■ほとんどない、という前提で進めるがなぜそんなことが起こるのか。ヨーロッパの街を歩いたり、ただの外国の住宅街を歩いて「なんだか良い感じだ」と思えるのはなぜか。モダン建築があればいいというものではない。

たとえば日本人が初めてパリに立つと「思ってたんと違う」となる人が多いらしい。道にはゴミとたまに犬のフンがあり、ゴミ箱周辺は存外汚い。清潔ではないなと思う人が多いと聞く。だが写真を撮るときはどうか?ベタなエッフェル塔、シャンゼリゼ通りの写真1枚取り上げても「美しい」と感じられる要素があると思わないか?(その証拠にフランスをテーマに取り上げる雑誌やテレビ番組では美しさを取り上げ→日本人に美のイメージを刷り込む→現地で失望する)

俺はパリが特に汚いとは思わないけど、そう思ったとしてもそれは清潔さのことを言っている。美しさは街中にいくつもある。

日本ではほとんど感じない。なぜか?

■ところで引越しは何度したことがあるだろう?俺は個人的に50回はしているし、ホテル暮らしだった時間も長かったり、海外何カ国にもいたから数えきれないほど色々なところに滞在してきた。

皆さんは多くて10回ほどかと思う。引っ越すとき何を基準に物件を決めているだろう?賃貸と購入では基準も変わるし、一軒家とマンションでも変わるかもしれない。ただし条件が変わっても基準が変わらないものがある。屋内の条件は別として、

通勤圏

駅までの距離と移動手段

子供の学区

金銭面

スーパーやコンビニの位置

などをまず考えているだろう。つまり住む家が「どこ」にあるのか?ということをまず考えるはずだ。そしてもっともはじめの考え方は職場からの距離になる人がほぼ100%になる。職場を起点に半径数十キロの内側の、どの沿線がいいだとか、交通機関だとかで絞った上でやっと「◯◯という土地がいい」と決める。

ところが当の本人は「◯◯という土地がいい」から考え始めたと思っている。

この選び方の基準は「好み」ではなく【利便性】だ。

何々をするのに便利。近い。疲れない。楽になる。時間がかからない。そういうところから物事の選択が始まる。

では家の中はどうだろう?

■最初は理想の家を建てても、生活は現実に追われる。

子供が小さければ面倒を見る時間がかかるし、朝早く起きる生活になる。朝が早いというのもまた「仕事に付随した条件」で、このリズムに世界中の人が合わせている。平均的な日本人の家庭ならやることは増える一方だ。毎日を心の余裕と共に過ごしている人はあなたの身の回りにどのくらいいる?そうではない人と比較してカウントしてみてほしい。

さて生活がそうだと、たとえば料理はどうなるだろう?料理のキーワードとしての「時短」をよく耳にしないか?現代日本では料理をする人は女性に多いと思うが、極力手間をかけず早く終わらせてしまいたい作業になっていないだろうか。誰だって美味しいものをゆっくり食べたいのが本音だろう。だが誰もそれを求めておらず、そのような習慣もなく、しかし自分が作らなければならない。そもそもその自分自身が忙しい。だとしたら時短が求めらるのも納得がいく。

料理に限らず、我々は毎日の生活を【機能性ベース】で過ごしている。たとえば車を買うとしよう。車種を何にするか?は子供の人数と休日の過ごし方で決まっているのではないか?これが機能性だ。過ごし方をスムーズにさせる機能を備えたものを「あらかじめ選ぶ」のであって、自分が心から理想とするいい感じだと思えるものを選ぶわけではない。「理想だ」「良い感じだ」「好きだ」「むしろこれが欲しかった」と思うのは必ず『機能性の条件を満たした後』だ。そしてそんなことは無意識で通り過ぎているので、われわれの大半は「良い買い物をした」と思っている。

■【利便性】と【機能性】はどちらも、物事をスムーズに運ぶことを想定している。代表的なのが百均で、テレビ番組でもよく取り上げられるテーマだが、百均の商品が外国では感嘆される。

しかも日本は工業国でありかつ消費者の目が肥えているので、利便性と機能性が洗練される。たとえばトイレや車のデザインがそうだし、世界一使いやすいサランラップや、世界一柔らかいトイレットペーパーは日本のものだ。

だがはっきりと言えることは利便性と機能性ありきで、初めてセンスが問われるという順番があることにある。そして往々にしてセンスが問われないまま利便性と機能性だけが先走る。

街中で統一感のないビルが立ち並び、今年1度でも街を美しいと思えたかどうか疑問なのはそういう理由だ。都会に電柱が立ち並ぶ景観の汚さも突き詰めれば同じ理由になる。ショップの回転率を上げるためにわざと居心地の悪い店を、客離れが発生しないギリギリのところで作ることもそうだし、街が看板だらけなのも同じ理由だ。

本屋の平積み棚は自己主張強めのタイトルとキャッチフレーズで目立つことを訴求した本しかない。外国の本屋に行ったことがある人ならわかると思うが、皆無とまでは言わなくてもこんな下品な並び方はしていない。

■日本人の美は日本刀のように機能を追求した集約型のものによく見られる。

あまり知られていないが、現代にも残る日本美はほぼ全て当時の権力者と権力者に関わる物事のもので、庶民は現代の最貧国と同じような生活をしていた。だから庶民は日本刀を使わないし(雑兵は最低限の機能だけ備わったナマクラ刀を使った)、大きな寺社や神社に入ることができるのは位の高い人だけだった。一部の追及されたものに美が集約されるのは当然だといえる。逆にいえばこれは、庶民的な広範なものなど何でも良いということだ。つまり最低限の機能があればそれでいいという考え方であり、実のところ現代でもこの考え方は持続している。

ヨーロッパの街並みが街ごと美しいのに、京都の街は祇園など一部しか美しくないのはなぜか?単純に考えてそうしようとする行政の働きがあるかないか、による。個々人が自分の利益優先にすると日本の街並みになるのは当然だし、個々人が街の景観を気にした連動をする人たちなら街が美しく保たれるのは当たり前だ。それを保守というかどうかは意見が分かれるが、パリではエッフェル塔が建つ時に大きな反対運動が起こった。理由は「街の景観が損なわれる」だった。

これはその国の常識観に関わることだが、もう少し絞っていうと民意とかモラルによる。本屋が下品になっても目立って売れればいい、街の景観よりも自分のところのビルにテナントが入る方が重要・・・というような考え方は個々人の利益は確保できるかもしれないが全体の統一を損なう。

日本人に中流階級が多いというのはバブル以前から言われていて、構図は今も変わらない。国民が総じて貧しくなっているのであって、経済格差は外国に比べて低い。彼らは皆、中世でいう庶民だ。庶民は一緒くたに最低限の機能を与えておけば良い。庶民は出版しないしビルを建てない。つまり金があるだとか、社会的なコネがあるとか、利権を持つような人が自己利益を得るために振る舞う。結果【美観は損なわれる】。

この構造が、つまり日本(人)をして美しさから遠ざける理由になっている。

庶民ではない「一部の人」が美意識に目覚めて力を入れる。だから日本では今までも今も一部しか美が保全されない。街も家の中も、本屋も場合によっては自然の中でさえそういうことが起こっている。

■このバックグラウンドがある日本の中で美を維持するのはなかなか難しい。美術館に行き静寂の中で1枚のいい絵に感動しても、家に帰ると本来いらないものに溢れていたり、節約目的で買った家電が目に入る。どうやっても美意識を維持できない。女性ならメイクをして美しくする意識があるとしても、逆にスッピンを見せることなどできないという背景を隠すための装いになったりすることがある。

この環境背景の中で美を基準にし、一本筋を持ってやっていくには、まず自分の身の回りを自分が美とするもので囲うしかない。接触頻度を高める必要がある。できれば美しいと感じる街に住み、毎日美しいと思える車を買う。つまり利便性と機能性を優位にしない。

美に値しないなら不便を享受する覚悟が必要だ。「オシャレはガマンから」みたいなことを基準にする必要がどうしても出る。フランス人の子供は自分で服を選ぶ。お気に入りの服を選んだとき親は全肯定しない。こんなふうに言うと耳にしたことがある。

「今日選んだ服も素敵だけど、あなたの目の色にはこっちの服の組み合わせの方がいい」

つまり美意識ありきで人と関わり、自分の美が何かを表に出す。俺もフランスのセレクトショップで試着したとき・・・白い夏服だったが、そのとき着ていたインナーが黒だった。店員はこう言った。

「白い服に黒が透けるのはダメ。白いインナー持ってくるからちょっと待って」

もう一度書くが「試着」で、だ。だが実際のところ俺も黒のインナーは気になっていたし、言っていることがもっともだとも思った。むしろベースがそこまで考える相手で安心したし、その通りにしようと思えた。

これと同じことを日常に組み込む。休日に芸術や自然に触れる人が美しい人なのではない。メイクが上手い女性が美しい女性ではない。日常が美しいこと、そして美しさを基準に物事を進めていくこと。利便性や機能性よりも明らかに優位にあること。それが現代日本でも美の矜持を保てる方法だと思う。

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