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「なんでも言い合える関係」を、我々はしばし理想化しがち(場づくり日記)

・「なんでも言い合える関係」というのを、我々はしばし理想化しがちである、という話。

・「本音を話すこと」「肚を割って話すこと」「普段ちょっと言いにくいことを話せること」等々、自分の場づくりにおいて、そういうことを大事にしている。

・何の因果か「場づくり」というよくわからないことを十年近くやってきたので、僕は普段はちょっと言えない相手の本音を引き出すような問いかけとか、雰囲気作りがかなり得意である。

・オープンダイアローグとか、ナラティブアプローチとか、対話的な実践において、「本音(=その人が本当に思っていることや、感じていること)」を話してもらわないことには、なかなか実践の始めようがないから、必然的に我々はそういう物を引き出すことが得意になってくる。
これらの実践は、基本的には「本音」を話してもらうことに、非常に価値を置いている実践だと言えると思う。

・でもこういうをやるのはなるべく「場」の中に限定しておいた方がよくて、あまり外部の日常の中で、こういう技術は使わない方がよいのかもしれない、ということを感じている。

・「場」というのは、特殊な空間のことである。場とは非日常である。
そして「場」は、我々を本音で話すことを促す。
でもそれが非日常的な空間でようやく成り立つことにはたぶん意味があって、つまり、日常空間でそれをやると、何かを壊しかねないような感じがある。

・「場」という空間は、一時的にせよ、我々の関係性を可能な限りフラットにしてくれる。でも日常の中では、そのフラットさは失われている。
権力勾配を持ったまま対話的なことをするのは難しい。それはしばし強制力を帯びることが多いから。

・あと、日常の中で、本音が駄々洩れになると、なんというか距離感が近づきすぎる感じがある。本音で通じ合えたような気になるから、何らかの齟齬が生じた際に「なんでわかってくれないの?」というような心性が生じやすいと感じている。

・本音で話すことは、我々の距離をしばし近づけすぎてしまう。
(我々がそれぞれ心地よくいられる心的な距離感を、必要以上に、しばし侵してしまう)

・「場」的なコミュニケーションがもっと一般的になれば、世の中はもっと良くなる、というような思いが素朴にあったのだが、そうでもないのかもしれない。
「場」的なコミュニケーションは、「場」に留めておくことに、意味があるのかもしれない。

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