自己開示の練習【心をころす】


私は本来の性格からだいぶ離れた位置まで来ていると思っている。

これが正常な人間の成長によるものなのか、外的要因から再構築と最適化された結果なのかは疑問に思ってる。


このかけ離れ方を考えると、心があるのなら相当歪な形をしていて、くっつき方も瞬間接着剤を使ったところや、無理やり縫い付けた箇所が多いと思う。
元々の自分を思い出してみせることも出来るが、今の自分でない。
最悪な状態の自分が「少しでも早く正気であることを証明する」ために作っていったように感じている。
これが自分自身を守るための手段でもあった。


だから今の自分に不満はない。
多分1番辛かった時期に、誰も何も救いにはならなかったけど、寄り添ってくれたことや支援してくれた事実はある。
個人的には何の感慨も湧かないが、その事実は社会的には感謝を示すべきことで、一生の恩を受けたと受け止めるべきことなのだと思う。


その時期を思えば、今また少しバラバラにして再構築と最適化をしていく作業に苦痛とは思うことはなく、必要な作業だと捉えられる。

手を差し伸べてくれる様子をみて、相手の立場から適切な事であるのか考え、自分に必要な支援の形を選べると思う。

ことが落ち着いたら満面の笑みで感謝が言えるだろう。



そう。私は一度バラバラにした時に「私の感情、私の意見」にまつわる物事の優先順位を、とてつもなく下げたのだと思う。

1人で内省している時は自由だが、他者と共有する必要はないと割り切ってしまったのだ。
心を開かなくともコミュニケーションは成り立つし、生活できる。不足ない。

とてつもなく嫌なガキが出来上がった(笑)
学校の先生は、精神的な幼さを感じるし、偏った環境で生きていることが垣間見えた。

何かと話しかけてくる大人は、子供の受け答えから様子を見ようとしていることがわかった。

同級生の大半は自分自身の欲求を満たすことに必死で見えている視野が狭く、そんなに自分に対して使う時間が多いのかと驚いた。


一度壊れてしまえば、壊される前に心をころす方法が身につく。
どこまでの攻撃なら受けて良いのかわかるというか、バラバラにくっつけた心の剥がれても良い部分がわかる感覚。
剥がれた場合は自分で付け直すか、そのまま捨ててしまい、小さな再構築と最適化してる。

適度に踏み込ませることで、確実に踏み込ませないことができるようになったと思う。


個人的には酷く白けた人間であるとは思うけど、誰にも迷惑をかけていないので問題だと思わない。

対して好きでもないものを好きだということもあるが、それは相手の尺度に合わせた場合の尺度での物言いだと考えている。

友人関係も個々に合わせて適切な関係性、距離感が心地よいと思うから続いていると思う。

暴力を振るわれても、心をころしていれば冷静に対処できる。



これが私にとってはやりやすい方法であった。
この先も大筋、この方法から外れることはないのだろう。


心とは言ってみたけど、多分何とでも言い換えられる。


人はいい意味でも、悪い意味でも変われる。


私という人間はやはり自己開示しようとも思ってなかったし、する努力をしていないことがわかった。

今の私は、踏み込んでもいい場所を増やそうとしているのだと思う。
踏み込まれた後、感情に繋がる面が多いから上手く対応できるのか、個人的には大きな課題になっているのだと思う。


感情の話が出来るかどうかは、その先の課題でもいいのかもしれない。

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