「違い」は立派な個性
人は皆、考え方や感じ方がそれぞれ違います。
一人一人違うのは当然で、私はその「違い」を批判するよりも受け入れていくことを考えるべきだと思っています。
大人になった今、私は何となく社会で普通に生活出来ています。
普通に働いて、普通に人と話して、普通に物事を考えています。
なので、自分が世の中からはみ出した存在だと感じたことは殆どありません。
しかし、昔からずっとそうだったかというと、そういうわけではありませんでした。
私は小中学生時代、ほとんどの時間をいじめられて過ごしていました。
だからこそ、今でも小中学生時代の地元の友人とのつながりは全くありません。
自分では自分のことを「普通」だと思っていましたが、同級生の子たちから見れば、私は人より変わっていたのかもしれません。
「人とは違う」ということが受け入れてもらえず、逆にいじめるための材料として使われる結果になってしまいました。
しかしそれは、私にとって全く問題にはなりませんでした。
いじめられた経験のある人には信じてもらえないかもしれませんが、私はいじめられて辛いと感じたことがありませんでした。
いじめられ方があまりひどくなかったのか?
そういうわけではありません。
理由は単純です。
「この人たちと友達でいたい」と思えなかったから。
人は「好かれたい」と思ったり、その環境に馴染みたいと思ったりするからこそ、無視されたり、ひどい仕打ちを受けたりすると辛いと感じます。
でも、私は小中学生時代の同級生たちとは、関わりを持ち続けたいとは思えませんでした。
私が在籍していた学年は、誰の目から見ても、人を思いやることを知らない人がとてつもなく多い学年でした。
だからこそ、ここで馴染むよりももっと、こことは違う場所で自己実現をしたいと思いました。
高校から大学にかけての学生時代は、私にとって本当に充実した7年間でした。
そして、この期間で知り合った同級生や同期、先輩や後輩たちとは、今でももちろん良好な関係を続けています。
高校から大学にかけて知り合った友人には、私はありのままの自分をさらけ出しています。
確かに、友人たちはそんな私のことを「普通ではないよね」と笑いながら冗談まじりにいつも話しますが、それを「私らしさ」と考えてくれています。
そして、社会人になって出会った人たちも、また、ありのままの私を尊重してくれています。
確かに、私は人に恵まれている方だと思います。
だから、大人になれば、場所が変われば、環境が変われば、自分のことを受け入れてくれる人が増えるとは必ずしも言い切れません。
きっと、学生時代にも社会人になっても、いじめられ続ける人も世の中にはいるでしょう。
逆に、学生時代はいじめられたことがなかったのに、社会人になってからはいじめられてばかりという人もいるかもしれません。
でも一つだけ確かなのは、この世の中には、「人とは違う」ということを批判する人ばかりではなく、きちんと受け入れて認めてくれる人も必ずいるということです。
そして私自身も、出来るだけ多くの人の「個性」を受け止められるような人間でありたいと思っています。
それは、言葉で言うよりも明らかに難しいことです。
それでも、自分が多くの友人から受け入れてもらったように、私自身もそうありたいと心から思います。
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