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「他人への興味が薄い」をやめたい

最近、「他人に興味が薄いのって不味いかも?」と思い始めた。

この春、新しい環境で知らない人と交流する機会が爆発的に増えた。
毎日のように、「この人誰だっけ」と思う人とコミュニケーションをとる。

それ自体は別に苦ではない。
なんなら、知らない人と話すこと自体は魅力的だと思う。

しかし、矛盾するようであるが、相手に聞きたいことが特にない
特に聞きたい話や、「この話題を振りたい」というモチベーションがない。
なので、話すことを非常に億劫に感じる。

多分、心の底から相手を知りたいと思っていないのだろう。
話題を考えても、「この人のこれを知ったところでなぁ」と思ってしまう。

集団でのコミュニケーションにおいては、この性質は顕著になる。
場がそれなりに盛り上がっているのならば、自分が入る必要を感じない
5人組の4人で話題が回っているならば、自分は躊躇いなく黙って傍観する。
なぜならば、聞きたい事・話したいことが別にないから。

いままでは、"人への興味が薄い"ことは特に問題でなかった。
必要なコミュニケーションは問題なくとれている(と思っている)。
気の合う友人も少ないながらいる。雑談はそこで行えばいい。
"興味の薄い他人"を、わざわざ深く知る理由はなかった。

しかし環境が変わった。
一人暮らしを始め、今までの交友関係は手近で無くなった。
そうすると、気づかぬうちにある問題が起きていた。
行動のモチベーションが、ガクンと減っているのだ。

休日に出かけることが無くなった。
目的がないからだ。
新しいモノを追かけなくなった。
知らないからだ。

「人に聞いたから」「人と会うから」「人に伝えたいから」。
行動のモチベーションは他人の存在で成り立つことが多い。
新しい環境で"人への興味が希薄"であり続けたら、自分を満たす"楽しい"が一向に見つからない状態になってしまった。

常に他人に興味津々である必要はないと思う。
しかし、新しい環境に身を置いた今だけは、人に興味を持つ必要がある。
自分の楽しいを満たすために、一度は他人を媒介する必要がある
だから、「他人に興味が薄いのって不味いかも?」と思い始めた。

では、どうすれば人に興味が持てるのだろう?
他人を「自分に新しい"面白さ"を教えてくれる人」と考えれば、少しはマシになる気がする。
自分が知らない面白さが出てくるまで、その人を知るための会話が続けられる気がする。

・人とコミュニケーションをとる場に身を置く。
・他人を「自分に新しい"面白さ"を教えてくれる人」だと思う。
まずはこの二つを実践しようと思う。

二点目はただの心構えだ。トライ自体は今日からできる。
一点目はどうするべきだろう?
とりあえず明日、隣の席の人に聞いてみようと思う。
なにか新しい"面白さ"を教えてくれるはずだから。

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