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心の穴と捉えるか、空き容量と捉えるか

人は大切な人やモノを失った時または失いそうな時に、その存在の大切さにようやく気づく。

最初は特別であっても長年の月日が経つにつれて、その特別感が徐々に薄れていく。それでも、愛着が芽生え、日常の中に溶け込んで、存在することがまるで当たり前のような感覚になっていく。

人には抱えきれる容量があって、できることも持っているモノも関わる人も上限がある。そういった中で優先順位をつけてやれること、大切にしたいモノや人を自然と選択しながら生きている。

前回「何かを得るためには、本当に何か捨てないといけないのだろうか」というテーマで書いてみた。

実際には、
A. 何かを得たいから今ある何かを捨てて容量を空ける
B. 何かを捨てて容量を空けてからに新しいものを入れていく

もしくは、
C. 何かを失って空いた容量に自然に新しいものが入ってくる

このどれかなのかもしれない。

AとBは「鶏が先か、卵が先か」みたいなところがあるが、Cに関してはAとBとは異なり意識とは別で結果的にそうなったといったところだろうか。もしDがあるとすれば、「意思に反してやらなければならないことが入ってきて、今までのことができなくなった」という結果論になると思う。


私は現在、BとCの狭間を行ったり来たりしている。Cになる前にBを選択しようとしているのかもしれない。

私の心を占めるとても大切なものがまさに失われようとしている。留学を目前に自動的に環境の変化が起きざるを得ない中で、大切なものを手放さなくてはならない状況が起きている。手放さなくてはいい方法があるならばそのまま大切なままにしておきたいのだけれど、悲しいことにどうやらそれは現実的ではないのだ。

それを改めて実感したときに、その存在が精神的な支柱としてあまりにも大きいことに気づいてしまった。そうしたら、手放なすことが怖くなった。

“また心に大きな穴が空いてしまう”

なんとなく頭で理解していたものの、大切なものが急に失われるかもしれない現実を受け入れられないまま、それがまた執着に変わろうとしている。

本音としては、

失いたくない。

そのまま大切にし続けたい。

でもそれができないなら、もういっそのこと自分から手放してしまったほうが楽になるんじゃないかと考えが頭をよぎる。しかし、コトが大きいだけに手放すにもかなりの労力が伴う。そしてなにより、“これじゃダメ、逃げちゃダメ”だと心が訴えてかけていて、逃げ出さずに向き合うことことを選択した方がよさそうなのだ。

その時を待つのか、自分から手放すのか。
結局のところどちらにせよ失うことには変わりないのだ。そんな葛藤に苦しむ中で、ふと最初に書いた容量のことが頭に浮かんだ。

“心にぽっかり大きな穴が開いてしまう”と捉えるのではなくって、“大きな空き容量を得ることができる”と捉らえることができれば、喪失感の悲しみの渦に巻き込まれずに新しいことへのワクワクや期待を得ることができるのではないかと。

少しだけ見方を変えてみたら、
手放すことへの恐怖が和らいだ。

限られた心の容量を占めていた大切なものは、執着とともにどんどん膨れ上がって容量を圧迫していたけれど、適切な容量に戻して圧縮をかけるか、外付けのものに移行することにした。

“きっとこれでいい”

何が正しくて、何が間違いかなんてわからない。

答えがなくても大丈夫。

空き容量が大きくできてしまうことへの不安感は正直拭いきれないけれど、失うことになっても私なら大丈夫と自分に言い聞かせながら、新しい何かに出会えることに目を向けていきたいと思う。

ちょっとだけ強くなれた気がする。

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