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地上的絶望ではなく遊星的失望に向けて——追悼・松岡正剛


『中央公論』2022年10月号掲載の松岡正剛×高山宏対談の収録風景。高山先生が猫柄シャツを着ていて、自分は虎柄シャツを着ていたのもあり、帰り際に「師弟でシャツのセンスが似てるな(笑)」と松岡さんに言われたのを、とてもよく覚えている。またお会いできると思っていた。
画像出典:『セイゴオちゃんねる』【PUBLISHING】セイゴオのメディア掲載情報(9月~10月)あがた森魚、高山宏、138億年のかけら https://seigowchannel-neo.com/publishing/4772


8月16日に學魔・高山宏先生から届いた手紙にこうあった。

12日、小生の半生を引っくりかえすような事態生じ、すっかり考えこみ、落ち込んでゐる。十日もすれば読書界が引っくり返るよ!きみとも関係なくはない話!荒俣も小生も、どうすることになるのか。

2024年8月14日消印

「荒俣も小生も」という部分でなんとなく察しがついた。そして18日に友人の高山えい子から電話があり、松岡正剛さんが亡くなったと直々に教わった。悪い予感が的中してしまった。心の準備はできていても、ひどくショックを受けてしまって、それから数日ほど、ずっと松岡さんのことを考え、本を読み返していた。

『中央公論』2022年10月号の松岡正剛×高山宏対談の企画・構成をやったことがあって、松岡さんと直接にお話しできたのは、そのときの一度きり。たった一度、4時間である。仮に個人発信のnoteとはいえ、追悼など書いてよい立場ではない。分かっている、理性的には。しかし感情的には、こうやって文章を書かないことには抑えられない何かがある。ぼくはそのたった4時間が今でも忘れられず、その時にかけられた「魔術」がいまだ解けないでいる。対談の最後、若い世代へのメッセージはありますかと問うと、松岡さんは以下のようにおっしゃった。

松岡 ……もうちょっと失望した方がいいと思うね。逍遥して、目途が立たないっていう経験をした方がいい。結局SNSというのは失望しそうなことは全部パッとやめちゃって先に行って、ゲットした方へ進んでいくだけでしょう。ゲットできないというか、手から零れるというか、掬えないことの経験が少ない。
 それからもう一つは、ゲットするときにグリップするのではなく、蝶々を捕らえるときのように両手でほたほたと、蝶々が死なないように持っている状態で家に帰らなければならないということ。検索して何かにあたるだけで、あたったものをキャリーするときのフラジャイルな状態がないんですよ。
 さらに言えば、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルが「抜き型」って言葉を使ってるんだけど、虫は虫の知覚フィルターによってしか世界を感得できない。だから抜き型で世界を見ている。それがファッションデザイナーの山本耀司の場合はドストエフスキーと坂口安吾なんだけども、彼のドストエフスキー理解は『貧しき人々』なんだよ。「あと読んでないの?」って聞いたら、「いや読んだよ。読んだけど『貧しき人々』ほどの感動がない。それで抜いちゃうから」と。そうするとどうしても他のドストエフスキーはつまらなく見える。そういう読みがいま足りない気がする。
 だから高山宏に後藤くんが感応しているというのはもの凄いことなので、そこから外に出ていくというよりも、高山宏を抜き型にしながら、その器に入れて運ぶときに、何かが零れていってしまうような失望を味わうといいと思う。
高山 ははは、失望かあ(笑)。
松岡 そう、遊星的失望。

松岡正剛×高山宏「失われた独学と博学の復権」
『中央公論』2022年10月号、144-45ページ。

「絶望」ではなく「失望」という言葉を選ぶあたりに、僕は松岡さんの言葉へのフラジャイルな「あわひ」を感じた。失望にはしごくあいまいなニュアンスがある。ネガティヴな感情ではあるのだが、強い怒りだとか、深い悲しみだとか、そうしたわかりやすい負性ではない。地上的な希望と絶望の弁証法に回収されない、宇宙的パースペクティヴからフッとため息をつくようなアンニュイな優雅ささえ、どことなく感じる。それゆえに遊星的失望なのかもしれない。

〈絶〉望、〈絶〉対、〈絶〉滅といった崇高美を感じさせる言葉には、どこかニーチェ~バタイユ系譜の「力」のすさまじさがある(ニック・ランドのバタイユ論はその名も『絶滅への渇望』)。松岡さんもお好きだったバーバラ・スタフォードが言うように、比較不可能にバカでかい崇高は「愛」と「相似」と「アナロジー」を切り裂く。「ぼくには、ニーチェやバタイユの「力」がいささか強すぎるのではないかという、ちょっとした疑問がある」と千夜千冊の145話に書いており、これは田中純さんも同じ趣旨のことを最終講義で語っていた。バタイユの沸騰する「アンフォルム」な力を、どうにか「フォルム」で抑制しなければならないと。

松岡さんの魂であろう『フラジャイル』を読み返してみると、この「失望」という言葉は、トワイライト(黄昏)感覚にあふれた、とても繊細な、アンビバレントな「あわひ」から漏れ出たものだと察せられる。

……夕方や夕暮や黄昏には「弱さ」の本質というものがひそんでいるからで、真っ昼間や夜中では何かがあまりに強すぎるのだ。そこを、ライナー・マリア・リルケは「真夜中では太鼓が強くなりすぎる」と書いていた。

松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』(ちくま学芸文庫、2011年6刷)142ページ

ずっと真夜中でいいのに。よくないのだ。

ピーター・バークの『博学者』の翻訳(マニエリスムが「マンネリズム」と訳されていて「失望」した)が出た直後に、松岡さんが亡くなるなんて悪い冗談にしか思えなかった。松岡・高山対談の聞き手であったぼくはテーマを「ポリマス(博識)」で切り出したのだが、松岡さんは苦笑いして、「高山宏も僕もそこが本質じゃないんだけどね」とおっしゃったのを強く記憶している。『フラジャイル』では「知の全体」なんてありえないんだから「断片」でいく、と書いているのだからそりゃそうである。バカだった。

とはいえ、やはり松岡さんは紛れもないポリマス。『出版人・広告人』の「博覧狂気の怪物誌」連載では、恐れ多すぎて取り上げることが憚られたが、やるしかない、という蛮勇に駆られている。勝手な義侠心である。松岡・高山・荒俣の大妻女子大学での鼎談で、「バタイユがカイヨワといっしょに研究していたことが重要なんです」と言っていたことが忘れられない。カイヨワやバルトルシャイティスに代表される形態学(モルフォロギー)が足りないと嘆いていた。ぼくの主宰する魔誌『機関精神史』6号のテーマはおそらく「形態学」になる。『遊』で「相似律」特集を組んでかたち三昧してみせた松岡さんへのオマージュになればと願う。

『objet magazine 遊 1001 相似律 観相学の凱歌のために』
工作舎、1978年

松岡正剛が存在しない時代を、これから僕は生きていくことになる。千夜千冊はもう更新されない。正直、悲しみと同時に不安が大きい。自分ごときが稀に「博覧強記」などと呼ばれてしまうくらいに低レベル化した、タコツボにフジツボが湧いたような人文渡世、何を指針に生きていけばいいのか。1990年代以降、明らかに下火になりつつあるポリマスの伝統は消え去るしかないのだろうか。そんな感情に襲われたとき、ぼくは以下の松岡さんの言葉を常々思い出す。

松岡 ところで、ポリマスを持続させたいならば、図とか絵とか、ダイアグラムとか地図だとか、知を支えている言表(エノンセ)とは限らないものが復活した方がいいんじゃないかな。
 たとえばフランシス・ベーコンのように三幅対を知から取り出せる方に向かえば、ポリマスは復活すると思う。ミュージック・ヴィデオとか、YouTubeとか、あるいはゲーム、マンガ、アニメのなかにはもの凄く画像的なものがあって、それらの作品は感応力をそこで保持しているんだけど、それがうまく機能していないのだとしたら、その感応力を翻訳する力を皆が失っているからだと思う。
 だからポリマスに相応しいメディアスタイルに変えることを、21世紀のポリマスたちにはお勧めしたい。

松岡正剛×高山宏「失われた独学と博学の復権」
『中央公論』2022年10月号、140ページ。

来年出るであろう『博覧狂気の怪物誌』(晶文社)の主役クラスに宇川直宏さんを据えたのは、松岡さんが遺言のように残した「ポリマスに相応しいメディアスタイル」こそがDOMMUNEだと確信しているからだ。グーテンベルク銀河系崩壊の最終段階に、ちょうど書き手としてのデビューが重なってしまった自分は、新しい「場」を切り開かなければ、たぶん死んでしまう。再読した『フラジャイル』の「ネットワーカーの役割」の見出しに、僕の赤ペンと付箋が集中したのは言うまでもない。

日々「絶望」のニヒリズムは募るばかりだが、「失望」のダンディズムに踏みとどまりたい。潔くかっこよく生きていきたい——拙著『黒人音楽史』の「「静かなやり方」で、新しい歴史を紡ごう」なるフレーズは、松岡正剛の「みんなピアニッシモな反撃をしたいんです」のパラフレーズだと気づいた人はいるだろうか。『フラジャイル』にあった稲垣足穂の言葉が、もしかすると、博学者(いや、遊学者)のみに見える遊星的失望のパースペクティブなのかもしれない、と見定めつつ、このすばらしい引用文で終えたい。

「結局は、そもそも天体がな、フラギリテートなんですね。それはね、無関心というものの広大な原郷やということです。そんなもんにイジドール・デュカスやトリスタン・ツァラでは、とうていとどきっこあらへんわ。」


近藤弘明「黄泉の華園」(1974年)。松岡正剛が『ルナティックス』で絶賛したこの画家の作品こそが追悼にふさわしく思えた。これは取り急ぎの追悼。「編集」「かたち」の二大テーマで松岡正剛のポリマシーの秘密をさぐるテクストを紡げればと思う。


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