2023/03/18 横浜港の黒い夜海

「今日飲み行こうよ」
ワンルームの自室で朝兼昼食のバナナを頬張っていた彼は、突然の愛美からのLINEに、皮を剥く手が止まってしまった。

振られた女からの突然の誘い。

「うん、いいよ。」
気づけば彼は、バナナを置いて、1分とおかず愛美への返信を送っていた。

つい数週間前、2人で出かけたドライブの帰りに、齢24にして彼の人生史上初となる女性への告白を敢行したのだが、あえなく断られてしまった。
「いい人だけどそう言うふうには見れない」
という、テンプレじみたありきたりな理由で、である。
気まずい空気のまま彼女を車で送り、1人何度もその言葉を頭で反芻させていた彼は、次第、惨めさと共に怒りが湧いてきた。貴重な休日に、かの女如きに時間を割いた挙句、かような惨めな目にあったことが許せなかったのである。
無論、彼から誘ったドライブデートには違いなかった。デートプランから金銭まで全て彼が負担し、愛美に喜んでもらおうと、彼の思考を巡らせた結果の時間だったのである。それだけに、愛美と過ごした車内での数時間が、酷く滑稽に思えた。
こうして彼は、愛美への恋心を断ち切る決心をしたのである。帰宅後、愛美から何通かのメッセージが来ていたのを生返事すると、彼のLINEの中で数少ない女性とのトークであった彼女を非表示にし、未来永劫彼女と会話することはないと誓ったのだった。

なぜか二つ返事でokしてしまったのかは彼自身にもわからないが、兎にも角にも、愛美と横浜中華街でディナーを頂くことと相成った彼は、電車で元町中華街へと向かっていた。
車窓から見える遠くの景色を眺めながら、なんで二つ返事でokしてしまったんだろうかと考える。一度振られたから未練を断ち切ったんじゃないのか。あの怒りはなんだったんだ。怒りをぶつけた女に返事をし、更には飯を食う約束までしてしまったという事実の責任を言及するかたちで自分に問いかけるも、その答えはなかなか帰ってこない。いや、俺に未練なんてない。振られたからにはもう彼女に会うわけにはいかないんだと頭の中で何度も思いながらも横浜中華街へ向かっている自分が情けない。そもそも、なんで愛美は会ってくれるんだろう。なんで、一度振った男と横浜へ行くんだろう。そんな疑問を乗せた電車は、ひたすらに都心へと走っていく。すっきりと晴れた冬空は遠く富士山まで見通せたが、その頂きは黒く大きな雲がかかっていて、晴れた空にはそぐわぬ醜い姿をしていた。

pm6:00。元町中華街駅。待ち合わせ時間より少し前に着いたが、愛美は彼を振ったあの時と同じ佇まいで待ち合わせ場所に立っていた。愛美を見た刹那、2人で出かけた楽しい思い出と振られた時の辛い思い出が同時に蘇り、心がグッと重くなる。重い足どりでゆっくりと歩みを進め、なんとか彼女に話しかけた。
「お疲れ、ごめん待たせて。」
「ううん。今きたとこ。」
愛美は以前と変わらない笑顔で彼に言葉を返す。特に店なんて予約してなかったけど、彼らは横浜中華街へと歩みを進めた。
最近何してたとか、そんなたわいも無い話をしていたら横浜中華街への入り口に着く。
「どこのお店にする?」
何の気なしに愛美に尋ねるといつもの答えが返ってくる。
「どこでもいいよ。」
だが、愛美の「どこでもいい」は本当はどこでもよく無い。前に群馬にドライブに行った折、どこでもいいと言うので碓氷峠鉄道文化むらという、マニアしか喜ばぬような施設に連れて行ったら苦い顔をされたという苦しい思い出が蘇る。彼は昼間調べた情報を必死に思い出して中華料理について蘊蓄(うんちく)を垂れる。
「そかー、どこでもいいか笑俺結構中華料理が好きでさーーー」
と、小5分ほど中華料理について語る。彼は普段から池袋の所謂「ガチ中華」と呼ばれる界隈に出かけて行って、本場中国の味に舌鼓を打つほどの中華料理通なので、中国の食文化には精通しているつもりである。個人的には四川の激辛料理を味わいたかったが、ここは四川に一味酸味を加えた湖南料理に連れて行きたい。彼の頭の中は完全に湖南料理に支配されていたのである。
「ねぇ、湖南料理なんかどう?今コナンの映画やってるしさ笑」
彼自身も訳のわからない謎かけをしつつ、愛美を中華街の一角にある湖南料理屋へと誘導した。
「イラシャイマセー」といつもの中国人の調子で話しかけてくる店員に2人で、と短く答える。案内された席に座った2人は、さっそく料理を注文した。
コース料理かつ飲み放題を選択した彼らは、それから2時間ほど、湖南料理に舌鼓を打ちつつ話を弾ませた。
「ねぇ、なんで今日誘ってくれたの?」
さりげなく、彼が連絡きて以来ずっと気になっていたことを聞く。
「うーん会いたくなったから?笑」
と微笑む愛美。愛おしい笑顔を浮かべる彼女に不覚にもテントを張ってしまう彼。
女の言う会いたくなったからは、どこまで信用していいのだろうか。彼は酸辣湯をすすりながら愛美の言葉の真意を考える。けど、酸辣湯の器が空になっても、チェイサーの王老吉のグラスが空になってもその答えは分からなかった。
彼は、デートは男が先導するものという信念のもと、愛美を楽しませようとずっと話を続けた。近況報告もそこそこに、中華料理を食べているのだから最近の中国情勢について語るべきだと、中国方面のニュースを語り、それについての意見を弁舌巧みに話して聞かせた。そして、現在彼が趣味として取り組んでいるところの創作小説についても、最近はアクセス数が伸びているだの、これを本職にしたいだのと、できるだけ自分をよく見せようと彼の唯一の自慢を語ってみせた。彼は、店内の誰にも負けない大きな声で愛美に話をしていたのだが、彼が話している間、愛美は笑顔を浮かべ、オーバーにも思えるほどにリアクションを取っていた。彼が話すたび、凄い凄いと連呼する愛美の声にすっかり気を良くした彼は、心の底であんな怒りをぶつけていたことをそっと反省すると共に、愛美について、まだ自分に気を持っているという認識へ改めたのであった。

彼らはお腹いっぱいで外に出た。愛美は何杯もの酒でよっぱらったのか、彼がテントを張っていることも憚らず、彼の肩に身体を預けながら歩いている。
「どっか行く?」と聞くと「んーどこでもいいー」と愛美は酔っ払ってフラフラしながら答えた。とりあえず山下公園に行くことにする。そうだ、この酔っ払った状態で真意を聞こう。シラフなら言えないことでも、酔っ払った状態なら言えるかもしれない。答えによっては、この後ワンチャンもあるかもしれない。彼はおぼつかない足取りの彼女を引っ張り、ピンと張られた股間のテントがバレないよう注意しながら山下公園へ向かった。
休日の夜ということもあってか、山下公園はたくさんのカップルがいる。そんな中、彼は酔っ払った彼女を引っ張りながら進んでいく。ちょうど自販機とベンチがあったので、ベンチに彼女を座らせて、自販機で水を買ってから愛美に渡した。

彼女はゆっくりと水を飲みながらぼーっとしている。しばらく沈黙が続いた。耐えきれなくなった彼は、今日の真意を聞くために口を開く。
「あのさ」
「あの」
同時に口が動いた。彼女がどうぞどうぞと言うので、勇気を出して聞いてみる。
「今日って、本当はなんで来てくれたの?」
彼女はその質問に少し考える素振りを見せる。彼はたまらず畳み掛けてしまった。
「俺ってさ...一回振られたからさ...本当はこんなところに来るのもおかしいんだけど、でも来ちゃった。」
彼は言葉が止まらなくなっていた。
「俺はまだ愛美ちゃんと一緒にいたい」
目を見て彼女に問う。
愛美はその言葉を受け、しばらく考えた後こう言葉を返した。
「実はさ、、私2年前から彼氏いるの。さとしっていう。でも彼、今仕事で秋田にいて...」
衝撃の事実を明かす彼女は言葉を続ける。
「秋田って遠いじゃん?時々電話はするけど、やっぱり直接会えないのは寂しいのよ。」
何も答えない彼に、愛美は目をそっと伏せた。
「彼、君と似たところがあるんだよね。突然訳の分からないこと言ったり、大声出したり、話が全然面白くなかったり。そんな彼と君を重ねちゃって、また会いたくなっちゃったの。」
ゆっくりと、しっかりとした口調で話す愛美に、彼は文字通り絶句して、今にも膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
「勘違いさせちゃってたらごめんね。でも、本当に申し訳ないんだけどXX君には気持ちはないの。私って本当に悪女だよね。」
違う。彼は咄嗟にそう思ってしまった。
「私が悪いの。でもどうしても寂しさが抑えきれなくて...」
彼女は言葉を切ると、伏せていた目を上げて、彼の顔をはっきりと見ながら続けた。
「もうXX君とは会わない。だって、さとしにもXX君にも悪いもん。今日でこんなことはやめるよ。」
待って、こんなことはやめてくれ。
「ごめん、私先に行くね。今日は本当にありがとう。湖南料理だっけ?あれも美味しかった」
行かないで、やめて。
引き止めようと伸ばした手は、どんどん彼女との距離が開いていく。彼女は手を振って、山下公園の雑踏へと消えていった。
1人腰掛けているベンチには、彼女が残していった水が半分以上残ったまま置かれている。
休日夜の山下公園では、大勢のカップルが眼前に広がる夜景を眺めていた。彼は愛美が残して行った水のボトルを手に取り、ゆっくりと立ち上がって海際に寄りかかりながら、その景色を眺める。だが、その目線の先はみなとみらいの美しい夜景ではなく、その下に広がる深くて黒い港の夜海へと落ちていた。
地面のコンクリートに雨がポツポツと当たり、少しずつ黒に染め上げたかと思うと、まもなくしてあたりはザーザーという大きな音を立てて雨が降り注ぎ始めた。周囲の男女らは、突然の雨に辟易した声を上げながら、蜘蛛の子を散らす如く建物のある中華街の方へと足早に去って行く。
ひとり、海際に佇む彼の足元の海の水面には、たくさんの水の波紋が広がっている。しかし、それは雨でできた波紋なのか、はたまた彼の落涙で出来た波紋なのかは、誰にも分からなかった。

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