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Work|良く書けている、とはどういうことか?

多くの人がそうであるように、僕も文章を書くのが好きで編集の仕事に興味を持ちました。ある意味、自信を持って編集の仕事についたわけですが、自分の原稿を上司に見せれば真っ赤っかになり。直して見せたら、また同じくらい真っ赤っかになって戻ってくる。そのうち全部書き換えられて入稿する。

これって僕の原稿なのかしら? と疑問に思いながら小さなコラムを2、3日かけて完成せていました。

実際に書くことは氷山の一角である

僕の原稿を見てくれる人は、色々いらして、特に難関だったのは、読売新聞の地方局の局長だった方でした。

原稿チェックのスタンスはそれぞれ違くて、「事実関係が間違っていたり、わかりにくい箇所がない限りは書き手の原稿に赤字を入れない」という人もいれば、「書いてあることに間違いないという前提で、読みやすさや情緒的な文章に仕上げる」人もいれば、元原稿を情報ソースにして、ごっそり書き直してしまう人がいます。

僕が毎日のように原稿が跳ね返させられた人は、ごっそり書き直す人でした。

でも、この書き直す人にも2種類あって、自分の文章にしてしまう人もいれば、書き直して入るけど、文外に「こういうことを書きたかったんじゃないのか?」というメッセージを込める人(実際にそんなメッセージはないんですがね笑)がいます。僕が師事した人は、後者。そして、その方が僕の原稿の先生になります。

本当にメッタメタに直したものが返ってきても、先生の原稿になっていない、と思えたのは、事実をもとに原稿が構成されて、読んだ時にクセがない。クセというのは、わざと文法を入れかえてあえて引っ掛かりを生むような書き方をいうんですが、そういうクセがなく読んだ時に疑問がまったくわかないからです。

先生は、元々新聞記者だったので正確に事実を伝えることを仕事にしていたからなのでそういう部分が出ているから当然というのもあるのですが、それを素直に納得することができたのは(事実関係に間違いなければいいじゃん、の方が治しも少なくて気分がいいですからね)、先生の原稿に向き合う姿勢からです。

必ず先生は、原稿を見せる前に資料を用意しろと言いました。当時の仕事は、インタビューをもとにするのでなく、資料をもとにまとめる編纂ものをしていました。ですので、たくさんの資料を読んでその中から論理を構築していくので、書く側もまずは膨大な資料を読み込みます。

先生はその読み込み方が半端ないんです。先生以外のやり方で原稿をチェックする人は、ほとんど原稿をもとにした資料を読み込みません。実際僕も原稿をチェックする立場になると、ファクトチェックはするけど、必要な部分しかしないので、書かれていないことまでは調べません。

しかし、先生は書かれていること以外のこともしっかりと調べた上で、直しを入れるのです。

よく、編集は氷山の一角と言われます。膨大な取材やリサーチが海の中に隠れていて、ようやく海の上にその一角を表すことができると。まさに、僕の原稿を見てくださるその瞬間も、書かれていない事実を調べた上で見てくださっていた。僕はその事実に向き合う姿勢に感銘を受けて、どこまで強靭な文章を書きたいと思って以来、先生と思うようになりました。

そして、先生にようやく「良く書けてたな」と言われた原稿のことをよく覚えています。入社から5年たった頃に書いたクリムトの《接吻》に関する原稿でした。

クリムトはその官能性から情緒的に紹介されることが多いのですが、もっと同時代的なヨーロッパ絵画史の中に置いてみたいと考えて、ピカソの《アヴィニヨンの娘たち》やマティスの《生命のダンス》とほぼ同じ制作年であることを引き合いに、近代美術と現代美術の接点としてのクリムトという切り口を考えてまとめたんです。

良く書けている」と褒められながらも、真っ赤かという状態に複雑な気持ちを持ちながらも、直してみると僕が書きたかったようになっている。

その時僕はようやく、「良く書けている」の意味は、「良い視点を持って、良い論が組み立てられている」という意味なんだ理解することができた瞬間でした。

そうした先生の教えもあって、調べて調べて10 調べたことの1を書くという習慣ができました。そのかわり、香ってくる文章がその反動で(?)書けないのが悩みというかコンプレックスです。自分の感情がのせづらいのです。そこがコンプレックス。。。

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