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Life|僕は、どんな食体験をしたいのか?

昨日のnoteでも告知したように2月2日(日)22時から、ドイツのヴィッケンカンプ和海さんと「海外と日本の食体験、これからどうなっていくんだろう?」というテーマでZOOM対談をすることになりました。いま、つらつらと、どんな話をしようかな、と考えているところです。

そんななか、「じゃあ僕自身が、たとえば10年後にどんな食体験をしたいと思っているのか?」っていうのを考えておくのも、テーマの解を探していく上で手掛かりになるかも、と思い、考えをまとめておこうと思います。

人生に気づきを与える食体験

未来の食体験という点でいえば僕は、高級な食材だったり希少な食材を食べていたい、ということに、まるっきり興味がありません。

もちろん、そういった食材を育てたり、環境を守るうえで多くの方が努力をされているのも知っているし、そういった食材を扱うことができる料理人には、人間的な信頼が求められるのも知っています。そういった方々の力のうえに美食が成り立っているのも理解をしております。

なので、あくまで僕にとって「10年後の未来に期待したい食体験」という好みの問題として、願望がないというだけ。決して未来に継承する必要がない、といっているわけではありません。現に、寿司屋に行きたいし、エイジングビーフのステーキ食べたいし、予約が取れないレストランにもいってみたいですし。

あくまで個人の願望という意味で、僕は、料理を食べて人生観が変わるような食体験を未来に期待します。

それは、「今までこんなにおいしいものを食べたことがない!」というような、おいしさランキング新記録更新の瞬間ではなく、自分の人間としての視野の狭さ、固定概念の多さ、思考停止を気づかせてくれるような食体験です。

料理のジャンルという壁を誰が作るのか?

これまでそんな体験を3度したことがあります。

1度目は、料理雑誌を始めたばかりの2013年。「エスキス」のリオネル・ベガさんと「小十」の奥田透さんのコラボレーションコースでした。

リオネルさんと奥田さんが交互にフレンチと和食の料理を出していく、ごちゃまぜのコースで、陶器のプレートに盛られた料理が来たかと思えば、次は塗りのお椀が出てくるような流れで、ナイフやフォーク、箸を使って食べていく体験は、食の編集を始めたばかりの僕には、作法をなぞるだけで精一杯な状況でした。

そんななかで、リオネルさんの料理がでてきたときに、フレンチとも和食ともいえない料理に、どうやって食べるか? という迷いが生まれました。

なぜ自分はこの料理を箸で食べないんだろう。日本人のフランス料理だったら箸で食べるのを躊躇しないのに、なぜ今、自由にカトラリーを選んで食事をすることができないのだろうか? と。料理のジャンルは、国のルーツや食材の種類、調理方法によってって作られるのではなく、食べる側が勝手に作っているのではないか、と感じたのです。

自分がもつ固定概念や洗脳による思考停止が、実はいたるところにある、ということに気づかされた食体験でした。

なぜコースのメインは肉なのか

次の衝撃的な食体験は、2018年11月に銀座のイタリアンレストラン「ファロ」で食べた能田耕太郎さんのヴィーガンのランチコースでした。

料理雑誌も7年やってきて、さまざまなレストランで食べる機会を得ましたが、おいしさの上書きは何度もあって、感動もしたのですが、リオネルさんのときのような、そもそもの価値観をひっくり返されるような料理にはなかなか出会っていませんでした。

ファロでも、このとき以前に夜のディナーもいただいたことがありましたが、昼のヴィーガンコースほどの衝撃はありませんでした。

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このときの衝撃は、けっこう単純で「ヴィーガンなのに、こんなに食後の満足感が高いってなに? 肉を食べた後のような体の反応してるじゃん」でした。

昼のヴィーガンコースは、1皿のポーション(量)が多く、4皿とデザートのコースなのですが、食後に十分に体が満足していたのです。「今まで肉や魚というメインコースがないといけないと思い込んでいたけど、ヴィーガンを極めれば、従来のコース料理の定石を変えることだってできるじゃないか」ととても興奮したのを覚えています。

当時は、世界の料理全てが、体系化・システム化された近代フランス料理の上に成り立っていて、そのシステムを逸脱することができないのではないか、とかを考えていた時期でした。そのためヴィーガンでコースの構成自体を崩すことができたら、表現の自由がまた生まれるのではないか、と思ったのです。

美食のリアリスムという新しい表現

3度目の食体験での衝撃は、2019年末の「ANTCICADA」篠原裕太さんの昆虫料理でした。このレストランのことは、1カ月前にnote に書いたので、そちらを参考にしてもらいたいのですが、要約すると、今まで見てきたテロワールや産地、素材の声、足元の食材という言葉がいかに聞こえのいいだけのものだったのかということに気づかされたのです。

昆虫や幼虫、虫を食べるなんて、と思うかもしれないが、これまでの「自然の情景をひと皿にしました」なんていう料理は本当に表面だけで、自然の本質の入り口にすら立っていない。文明と非文明の境にも達していない場所から、どれだけ自然を見つめても本当のことは見えてこないんじゃないかということを考えさせられたんです。

僕はこれを、美食のリアリスムとよんでいて、19世紀に起こった絵画史の革命に匹敵すると思っています。

未来に期待する3つのアプローチ

このように僕は食体験に、人生観だったり美食観というものを、つどつど打ち壊して、あたらしい世界を見せてくれるようなものを求めているようです。なので、10年後を考えたときも、こういった自分の人生の当たり前をぶちこわして、まったく違う価値観を提示してくれる食体験を求めています。

その実現のためにも、今3つの分野に注目しています。

1つは、食と科学の分野「フードテック」。2つめは、モダンアートとしての食文化考。3つめは、アーティストの表現ツールとしての食

1つめのフードテックは、もうすでに追いつけないほどの進んでいる分野で、そこから体験できる未知の料理は、おそらく人類が長い年月をかけて積み上げてきた知の集積としての料理とはまったく異なる食体験を提供してくれそうです。

2つめは、料理人が作る料理を、アーティスト的に感性や感情の発露として捉えるのではなく、美術史のように、様式として体系化していくことで、現代料理を捉え直してみたらどうかということです。

現代料理は、美術史でいう19世紀末、印象派からモダンアートへ向かう、主義(イズム)が乱立の時代に似ていると思っています。色彩理論をさらに推し進めた新印象主義や、色彩だけに頼らず形にも美の見直しが必要としたポスト印象主義、世紀末の混乱を神秘的に表現した象徴主義、使う人に寄り添った親密派などが生まれ、それを次の時代に一気にひとまとめたのが、ピカソやマティスといったモダンアートの先駆者たちでした。

現代料理も、いまその時代に似ていると思っています。なので、10年後、ちょうどピカソが《アヴィニヨンの娘》を発表したような、料理の伝統を変える事件が起きるのではないかと楽しみにしています。

3つめは、料理人になりたくてなったのではなく、表現する方法が料理だった、というような人たちの料理です。たとば、ANTCICADAの篠原さんのように、料理人というより、自然が好き、地球が好き、虫が好き、昆虫が好きというある意味の学者的な人が、研究室ではなくキッチンに活動の場所を求めたような表現ツールとしての料理です。

科学が大好きでしょうがないでんじろう先生のような若者が、料理を表現方法として採用したり、文学が好きな人が料理でその世界を表現しようとしたり、アスリートが自分の体を作るために作った料理が新しい食材の組み合わせを生んだり。表現ツールとして料理を選んだ人たちの料理は、衝撃的な食体験の宝庫になる可能性が高いのではないかと思っています。

10年後の食体験。

好奇心を刺激してくれるような料理に出会い、それがまた自分のエネルギーになって、次の世界を目指していける。そんな食体験を未来でもしたいな、と思っています。

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