見出し画像

note|カレー哲学さんのnoteを読んだ

noteの #フード マガジンのピッカーでもあるのですが、「このnote」食をテーマにしたエッセイで、めちゃめちゃ面白いんだけど、マガジンに入れても伝わるかな、という方のnoteがあります。

カレー哲学さんのnoteは、まさにそれ。

たまにあるカレーのレビューやお店紹介などもあるんですが、それより断然、「カレーとは何か?」や「日本人のカレーはどこからきたのか?」を考えさせる「#1 麻婆豆腐はカレー?人類最初のカレーを妄想する」といったカレー哲学や、カレーを食べようとしてたら、なぜか不思議な出会いが生まれた「#39 カレーを食べたかっただけなのになぜかインドの農村に拉致され、大量の女子大生の前で日本代表スピーチをした話」、「インド人は『人に迷惑をかけてはいけない』ではなくって、『生きている以上、人に迷惑はかかってしまうものだからお互いに許し合おうぜ』って言われて育つらしい」という、インドのコミュニケーション観を言い当てる「#37 ムンバイからプネーまでたった74Rs。4時間のインド列車で起きたこと」など、食を通じた紀行エッセイがすこぶるおもしろい。

「カレーなんて存在しない」から始まるカレー哲学

冒頭に引用した#カレー哲学プロフィールには、こんな言葉が引用されています。

考えることはいつも2つだけにしよう。
今まで食べたカレーのことと、これから食べるカレーのこと。
3つ目はきっと余計だよ。3つ目はきっと自分のことだから。

カレー哲学さんは、「有名なデレク・ハートフィールドが残した、カレーにまつわるこんな詩を引用しよう」と言っているのですが、僕はまったく存じ上げておらず、調べてみると、村上春樹の小説『風の歌を聴け』の中に登場する架空の人物だそうだ。主人公の「僕」が最も影響を受けた作家で、デレク・ハートフィールド(Derek Heartfield 1909年-1938年)と、キャラ設定がすごい。

この辺りの引用は、カレー哲学さんなりのウェットなんだと思うんですが、けっこうこの詩って、創作活動をするうえで、本質的だなと思いました。

カレー哲学さんは、そのうえで「カレーなんて存在しない」と言い放ちます。

腹パンになるまでレストランを周りまくり、コネを駆使して家庭に潜入しレシピを盗んだ。そこまで自分を駆り立てたモチベーションは、いつも「もっとカレーを知りたい」という好奇心だけだった。

しかし、そうやってカレーを食べれば食べるほど、知れば知るほど、分からないことばかり増えていく。カレーを食べ続けた末、皮肉にも「カレーなんて存在しない」という結論に至った。

カレーは、製造方法や出来上がったものの総称であって、インド人が風土や気候のなかで知恵のなかで作り出したもではないということなのかな、と僕は思う。

たとえば、インドにおいてスパイスが、日本における出汁だとしたら、料亭のお椀は和食という一方で、漁師のあら汁は和食といえるのか? 山の中のそばは和食ではないのか? 日本人の料理があるいっぽうで、和食が「日本の料理」という意味を与えるフレーム作用だとしたら、カレー哲学さんがいうように、和食など存在しない。おそらく、一般的に和食と呼べないものも言葉の定義として和食になってくる以上、和食という枠は意味をもたない。「和食なんて存在しない」わけです(そのかわり、日本の料理は存在する)。

そのうえでなお、目の前にカレーがあるという現実。これは、観念的で崇高な思考の遊びにほかならない。

こういう、情報の受容でしか読むことができなくなった現代において、この「考える遊び」は、ぼくはとても意味があると思っています。つまり、答えがないものを読むことができる。それが文学だったり、人文だったりすると思うのですが、そういったものの復権という意味でも、カレー哲学さんのnoteは価値があるな、と思います。

有名なデレク・ハートフィールドの詩を自分なりに思考のガイドラインにしていくとするなら、こんなことになるのかな。

考えることはいつも2つだけにしよう。
今まで体験した表現媒体としての料理のことと、これから体験する表現媒体としての料理のこと。
3つ目はきっと余計だよ。3つ目はきっと自分のことだから。

デレク・ハートフィールドの詩によって、自分が何を志向し続けるのかを考えるきっかけをもらいました。

料理人付き編集者の活動などにご賛同いただけたら、サポートいただけるとうれしいです!