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Art|「モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて」を紹介します

新造形主義」と呼ばれる黒い直線と色面による幾何学的な図像が印象的なモンドリアンは、1872年にオランダ中部のアメルスフォルトで生まれました。

2022年で生誕150周年を迎えます。これを記念し、画家の生涯を一望できる展覧会として開催されているのが東京・新宿のSOMPO美術館で開催中の「モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて」です。

日本でのモンドリアンの展覧会は、1987年にオランダのデン・ハーグ美術館所蔵の作品を中心にした展覧会が初めてで、前回は23年前。日本では3回目になるモンドリアンの個展になります。

今回は、過去2回と同様に、モンドリアンの代表作を多数所蔵するデン・ハーグ美術館から50作品が貸し出されるほか、国内外の美術館のコレクションも集結。風景画家としてスタートし、世紀末の象徴主義を経てパリでキュビスムの洗礼を受けたモンドリアンが、いかにして「新造形主義」を確立していったのか。72年の人生を作品でたどることができます。

モンドリアンの作品以外にも、オランダでモンドリアンが中心になって創刊した雑誌『デ・ステイル』のグループで一緒だった仲間たちの作品も展示。ドゥースブルフ、ファン・デル・レック、ヴァントンゲルローといった画家の作品にはモンドリアンも含めて互いに影響を与え合ったあとを見ることができる展覧会として注目です。

ハーグ派の叔父に風景画を学んだ

敬虔なカルヴァン主義者だった父から教育を受けて育ったモンドリアンは、絵の手ほどきもこの父から受けます。

さらにハーグ派の風景画家で、叔父のフリッツ・モンドリアンからも学び、アムステルダムの美術学校に進学して卒業すると、図学教師の免状を得るなど、後年の前衛画家としてのモンドリアンからは想像できないような、保守的な環境のなかで絵画を学んでいきました。

展覧会では、こうした1910年代以降、多くの人がイメージする抽象画家モンドリアン以前の姿を見ることできます。

とくに、33歳の年に描かれた《へイン河畔、水辺の木々》は、ハーグ派の影響が色濃い初期の作品。印象派のような明るい色彩ではなく、オランダ特有の曇天のもと、わずかに差し込む光が水辺に濃密な雰囲気を与えている。
その後、新印象主義の色彩分割を連想させる《陽の当たる家》などの作風の変化はあるが、目の前の風景を描く姿勢にかわりありません。

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へイン河畔、水辺の木々
1905年頃 デン・ハーグ美術館蔵

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陽の当たる家
1909年 デン・ハーグ美術館蔵

モンドリアンは、1917年頃から「新造形主義」を提唱。その理論の追求を生涯かけて全うします。モンドリアン自身は抽象化を目指すようになってから、初期作品を拒絶する発言をし、過去との決別を果たしている。モンドリアンが何を捨てたのでしょうか。

展覧会では、その手がかりを過去の作品から感じてみるのもよいかもしれません。

純粋な絵画を求めたモンドリアンの生涯

1911年、39歳の年にパリにわたったモンドリアンは、ピカソやブラックが提唱した「キュビスム」を目の当たりにし、抽象絵画への道を歩み始めます。

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大きな赤、黄、黒、灰、青色のコンポジション
1921年 デン・ハーグ美術館蔵

目の前の対象物を写すという絵画の常識を捨て、《大きな赤、黄、黒、灰、青色のコンポジション》のように形と色という基本要素だけの純粋な絵画を目指したモンドリアンは、この造形理論を「新造形主義」と呼び生涯を通じて追求した。それは、新プラトン主義的思考を継承する神智学に傾倒していたモンドリアンにとっては「真実」を求める行為でもあったのです。

ベジタリアンでマッサージ好きの画家

モンドリアンの新造形主義の思想は、あまりにも先を行き過ぎたため、作品を売れずに生活が困窮した時もあったともいいます。

そのため生涯独身。絵を買う人を紹介するなど資金的に助けてくれのは友人たちだったそうです。

1918年から19年にかけて大流行したスペイン風邪に罹患したこともありましたが、無事に生還。健康のために、無塩食ベジタリアンになり、マッサージを受けていたという逸話も残っています。

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