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Human|落ちこぼれ編集者の17年9カ月

24歳の8月1日、青山一丁目にあった編集プロダクション、タミワオフィスに入社した。それから17年9カ月後の4月30日に退職。会社は、青山から市谷仲之町に移っていた。

17年前の僕には同期入社がほかに2人いた。さらに1歳年下で1年先輩もいて、切磋琢磨できるいい環境だった。週刊誌を抱えて毎日何かしらの締めきりに追われる過酷な日々だったけど、年齢の近い4人で支え合って仕事にくらいついていた。

僕は、そのなかで、なかなかな落ちこぼれだった。

1歳年下の先輩は、入社当時からすでに企画ページをもって編集会議に参加していたし、同期の2人も3カ月もたったら、小さいながらも企画を任され、半年後には本の奥付に名前が載るようになっていた。

一方僕は、いつまで経っても写真の整理やポジの切り出し、資料のコピーが日課だった。しかも半年経ったころには直属の上司に「君は編集に向かないから辞めた方がいいよ。残ってもいいけど、正社員にはなれないよ」と宣告されるほどの見放されっぷり。

学生時代は、それなりに勉強もできたし、器用に世渡りできてきた人間で、いわゆる挫折というのをしたことがなかったので、仕事を始めてすぐにお払い箱にと言われてさすがにショックだった。「お前は社会に出たら、まったく価値のない、まともに仕事すらできない人間だ」と突きつけられたようで、自分自身が無価値に思えた。

それでも「辞めたくないです」と言ったのは、なぜだったのだろうか。やっぱり負けたくないって思ったのかなぁ。

小さなスペシャリストの称号をいくつももつ

そこから、僕は小さくてもいいのでスペシャリストになること目指そうとした。たぶん、1世代上の男性の先輩の助言だったと思う。よくできた先輩編集者にならい、その通りにやってみることにした。

まずは、会社の本棚にある本のありかを全部覚えることをした。朝の掃除では本棚の整理を率先してやり、作業台に散乱している本をせっせと片付けていた。そうやって本棚にある本の場所を頭に入れておくと、企画会議のときに上司が「あの資料どこだっけ?」と言ったときに、すぐに本を出してくることができる。

おお早いね」という反応から、しだいに「探している本があるなら江六前に聞け」というふうになった。

写真のネガの整理も、きちんと整理して、写真構成の打ち合わせのときに、すぐに取り出せるようにした。コピーとりも早くて正確さを目指した。社内の日曜大工も率先してやったし、コーヒーも人よりおいしく入れられるように研究した。花見の場所取りなんておやすい御用だった。

江六前に言えばわかる」「江六前にまかせればちゃんとやる」というものを、いくつも持つことを目指していたのだ。

あいかわらず誌面の奥付に名前は載らなかったが、それでも会社の居場所は作れたこともあって、それからは「辞めた方がいい」とは言われなくなった。

ちなみに、本棚の本を覚えたことで企画を考えるときのスピードが早くなったという副産物もあった。

たとえば、「印象派展に関する企画を立てたいな」と思えば、頭のなかに印象派展に関する本がどれくらい会社にあるかわかるし、それを続けていくと印象派展の開催内容なのか、印象派展の美術史的な位置づけなのかによってどの本を選ぶかもわかるようになった。会社の本棚を思考の外付けHDのように使えるようになり、企画のアイディアの幅が格段に広がった。

小さなスペシャリストから、大きなスペシャリストへ

当時使われ始めたばかりのデザインソフト「QuarkXPress (クォーク・エクスプレス)」(InDesign以前の組版ソフト、これ知っている人、同兵ですね)の操作を覚えたのが、僕の転機だった。

当時、誌面のデザインデータや参考図版になるイラストのデータは、デザイナーしか動かさないのが当たり前だった。それは当時、DTPソフトが普及してきた直後で、操作や仕組みがブラクックボックス化していたからで、「ダメにしてしまいそうで触るのが怖い」というのが動かさない理由の本音だったんじゃないかと思う。とにかく編集者が動かすというのはタブーで、「デザインデータは必ずデザイナーに直させる」というのが徹底されていた。

いや、でもさ、数値が1つ間違えていただけで、ファックスして電話してとか、時間がいくらあっても足りないし、それ程度なら、こっちで直しちゃだめなのかな? デザイナーが触れて、編集差が触れないっていう理由もよくわからないし

そう考えて、夜中に泊まり込んでMacの前に座っては、QuarkXPressやillustratorの使い方を覚えた。

最初は簡単な棒グラフを作って、それが本に載った。自分が書いた原稿とはまた違ううれしさがあった。そのうち、入稿前にデザインデータの軽微な修正をするようになると、入稿作業の効率がかなりアップした。ある程度扱えるようになると、今度は、アルバイトにMacの操作をできるようにしてほしいと、指導する立場にもなった。

しかし相変わらず、企画を持つことはなかったし、企画・構成をたてて、写真を選んで、原稿依頼して(時には書いて)という編集者のほうが、ヒエラルキーでは上のように感じていたので劣等感はあり続けた。

それんななかでも良い兆候はあった。Macが使えるようになると、会社の社長と先輩編集者のビジュアル企画会議に出席したり、社長とマンツーマンでビジュアルを組み立てるような場にいられるようになったのだ。

そこで僕は、雑誌の誌面を見た人は、どんな順序で目で追うのかを考えるきっかけを得た。

読者はまず、本を風景のように1枚の絵のように見て、そこから目に入った文字(いわゆるキャッチコピー)を読む。それに興味がわけば本文を読む。つまり、読まれる本は、まず大きな誌面の印象から内容を想像し、その確認作業で文字情報を得ることをしている。つまり、誌面のビジュアルとキャッチコピーで、その記事を読むかどうかが決まることに気づけたのだ。

そこから企画をビジュアルから立てていく、という自分らしい仕事の進め方の道が見えたような気がした。

入社から5年。ようやく週刊誌1冊を任せてもらえるようになった。それからは、自分なりの企画の立て方の方法論ができたので、少しづつではあるが仕事を任せられるようになった。

やっと同期と同じフィールドに立てた、そんな気がしていた。

編集者らしい編集者への劣等感

僕が会社にもっとも感謝していることは、エディトリアルデザイン(出版デザイン)ができる編集者を許容してくれたことにつきる。

もともと、絵画や風景写真などのカラー写真をふんだんにつかって誌面を構成するビジュアル誌を多く作っている編集プロダクションだったこともあったこともあって許容されたということはあるが、そもそも出版界は、デザインはデザイナー、カメラマンはカメラマン、ライティングはライターというように、専門化が進んでいて、それを「集めて編む」のが仕事の編集者は、それぞれの専門領域に踏み込む必要はないと考えられてきた。

そういうなかで、編集者なのにデザインを勉強させてもらい(実際、デザインスクールにも通わせてもらった)、ある意味で先輩編集者のビジュアル構成のスキルを自分だけに投下してもらえたのは、ラッキーだったと思う。編集者としては役に立たないながらも、何かを活かすような育成をしてもらえたことは感謝しかない。

じっさい、今でこそ編集部内にDTP担当がいるのは当たり前だけど、勤めていた会社では、2005年頃にはすでにやっていたし、そういう点ではかなり先進的な編集プロダクションだったと思う。

もちろん、やっている当時は、スマートに編集者らしい編集者になりたいという憧れが付きまとって、それがコンプレックスや劣等感になっているのも事実だ。でも、「これしかできることがない」というように言い聞かせながら、Macに向かっていたことをいまでも覚えている。

しかし、結果的にはうまい具合に隙間産業を見つけて、会社に居場所を見つけることができた。そのおかげで、コロナ禍の中でも在宅して1冊の冊子を作ったように(神谷隆幸著《アスパラガスのレシピ》)、1から一人で出版編集ができているのも、間違いなく20代の苦労が生きている。

ちなみに、当時の編集者らしい編集者への劣等感からか、「自分はうまく書けない」と、いまだに文章を書くことに苦手意識が残っている。

身近な巨人に圧倒されて生まれた劣等感

編集者らしい編集者に対する劣等感の原点の一つに、じつは会社の社長の存在がある。

彼女は、雑誌黄金時代を駆け抜けてきたストロングスタイルの編集者である。僕の編集スキルの基礎を作ってくれた尊敬するべき人物で、社長なくして今の自分はいないと思っている尊敬する編集者であり、存在が巨人だ。

しかし、あまりに理想的すぎる編集者としての社長に対して、その仕事のぶりに憧れながら、自分ではけっしてそこにはたどり着けないもどかしさや嫉妬、そして劣等感のようなものを常に抱えながら、追いかけていたように思う。

僕は、いつになったら編集者といえるのだろう。そんな劣等感とともに歩んだ17年と9カ月だったように思う。

退職を決めたのは理由はいろいろあって、有り体に「自分が今どこにいるのか」とか「自分の力を試したい」という気持ちは、もちろんある。だけどもっと正直にいうと、そろそろその劣等感から逃れ、自分らしい編集者の姿を肯定してあげたいという気持ちがあったように思う。

自分らしく。そんなことを考えていたところでコロナがやってきた。そのため退職後のことは、実はまだ決まっていない。

じっさい、コロナ禍になる前から退職をしてフリーの編集者になることを考えていたが、いまこの段階になると、正解がどれというわけでもないので、会社の中で力の方が力を発揮できるような気もするので、フリーにこだわらず転職活動もしている。もちろん、年齢も年齢だし、人材需要は冷え込んでいので、なかなか光は見えない。

一方で、少しずつアルバイト程度ではあるが個人の仕事の依頼も来ている。企業広報の編集アドバイザー的な役目である。

ウィズコロナ、アフターコロナの世界を見据えて、さまざまな可能性を同時に模索していかないといけないとは思っているが、なかなか今の瞬間では答えを出せていない、というのが正直なところだ。

僕は、いつになったら編集者になれるのだろう

このnoteを書いてみて自分でも思ってもみなかったことに気づけた。

そういえば僕は、もともと王道の編集者じゃなかったよな

1990年代の雑誌ブームを作っていたような編集者に憧れて入社したけど、結局そうはなれなかった。それでも、小さなスペシャリストになって、Macの操作を覚えていた。だけど、やっぱり先輩編集者のようにもなれなかった。さらに、いまとなっては、たとえば幻冬舎の箕輪厚介さんのように時代をリードするような新しい編集者のようにもなれていない。

そう、僕はいつだって落ちこぼれだ。

落ちこぼれなら、落ちこぼれらしく這いつくばって、隙間を狙って仕事をしていくしかない。

それって結局、17年9カ月、やってきたことと同じってことじゃないか。

ああ、僕はいつ編集者になれるんだろう。そんなことを考えながら、また編集者らしくない仕事ばかりして、次に進んでいくのだろう。

編集者を目指して17年10カ月目がすでに始まっている。

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トップ画は、おそらく2004年頃の会社の集合写真(僕は左端)。
最後の写真も同じ頃、26歳ごろの僕と社長。

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