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Art|あの厄災と私たちをつなぎ直す

水戸にある芸術館に機会があれば行ってみたいと思っていたら、偶然にも水戸に出張する予定が生まれ、前乗りして行ってきました。

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水戸駅北口からバスで、泉町一丁目に降りると、印象的な巨大なオブジェが目に入ります。地元では「アートの塔」と呼ばれている芸術館の象徴です。

典型的な地方都市のなかに異質としか言いようのない多面体の塔は、街のいたるところで見つけることができて、自分が街のどこにいるのかに気付くきっかけを与えてくれるような気がします。

バス停から徒歩5分くらいで芸術館へ。

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地面からぬんと立ち上る塔は迫力がある。

この日は芸術館にある現代美術ギャラリーで開催されている展覧会「3.11とアーティスト:10年目の想像」も見てきました。

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東日本大震災から10年が経とうとするなかで、当時34歳の自分にとっても、社会とのかかわり方に考えさせられる機会であったと同時に、当時のことの多くを忘れてしまったり、都合よく記憶しているような気もしていて、あらためて当時のことを考えるきっかけになればと思って観てきました。

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分断は観衆が生み出すものである

3.11をテーマにしたアートの展示というよりは、アーティストが何をしてきたのかという記録を再度展示しているような、ドキュメンタリー要素の強い展示でした。

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小森はるか+瀬尾夏美

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加茂 昴

なかでも、印象に残ったのは、藤井光さんの「差別」をテーマにした《赤い線に分けられたクラス》という映像作品です。ある架空のクラスで、差別を生徒に伝えるワークショップを捉えるもので、ドラマとドキュメンタリーを行ったり来たりする映像が緊張感がある構成になっています。さらに、最後には生徒役の子どもたちにギャラとおもわしきポチ袋を手渡し、最後に差別をするのは「観衆である」というメッセージで終わるというもの。

3.11以降も、差別というよりは、多くの現象や断絶を「観衆」が作ってきた。さらにコロナの分断も、コロナウイルスではなく「観衆」が分断を起こしている。

物事は観衆が決めるという事実から、僕たちは何を学んでいるのか。むしろ何も学んでいないようにも感じたりもする。

本展では「想像力の喚起」という芸術の本質に改めて着目し、東日本大震災がもはや「過去」となりつつある今、あの厄災と私たちをつなぎ直し、あのとき幼かった世代へ、10年目の私たちへ、そして後世へと語り継ごうとする作品群を紹介します。

展覧会の説明には、このような一文があります。「あの厄災と私たちをつなぎ直」すことは、けっして悲しいことでもなく、苦悩でもなく、もういちどつなぎ直すことは、このようなことでずっとしていかなくてはいけないんじゃないかと感じました。

僕自身、震災のときに、何も社会に関われなかったことは、ずっと心残りだったりします。それを思い返して自己嫌悪することもあるんですが、それと震災の記憶は別物だと思うので、しっかりとつなぎ直しておくべきなのかなと。

また、展示のなかで、当時の被災地での取材を演劇風に再現した映像がありました。

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そこではたとえば、放射線量を示す「デシベル」という単語であったり、食べ物の不安などがあったことをすっかりと忘れていたことを思い出した。それは、どこか今のコロナにも重なるものもあって、社会の仕組みを変えるようなことが起こるし、起こるものだと思っていかなければいけないことにも改めて気づかされます。

そういったさまざまな経験を含め、とてもいい展覧会でした。

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