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なぜ我々は「恨み」を捨てられないのか?

 「恨みが消えない」「過去に受けたいじめが忘れられない」「昔の事をつい蒸し返してしまう」といった悩みを抱える人は多い。そうした多くの人は恨みを忘れたいと切実に願っているにもかかわらず、恨みの対象への激しい憎悪が捨てられず苦しい思いをしている人が多い。他でもない私も他人から受けた加害や裏切りを忘れる事が出来ず苦しんでいた時期があった。

 ではなぜ私たちはこれほど苦しんでいるのにも関わらず、恨みを捨てられないのだろうか?

敢えて言えば、「恨み」とは依存性のある「ポルノ」だからだ。

 いきなり何を言い出すんだと思われるかもしれないが、どうか最後まで読んでいただきたい。
 恨みがポルノ的な特性を持っている事は、世間のエンタメに置いて「復讐モノ」が古今東西根強い人気を誇っている事からも解る。言うまでもない事だが、こうしたコンテンツが人気を博するには復讐の原動力たる「恨み」に対する消費者の関心や共感性が高くなければ成立しない。我々は「恨み」という感情に対して敏感に反応するからこそ「復讐」の物語が好きなのだ。

 特に「なろう・異世界モノ」のなかでもすっかり定着した「パーティ追放モノ」の醍醐味は「ムカつく奴ら」がボコボコにされるのを見てスカッとするという所にあり、「復讐モノ」の延長といえるコンテンツになっている。

https://dic.pixiv.net/à/%é8%BF%BD%é6%94%BE%é3%82%8


こうした物語では物語の前半に主人公に対して「ムカつく悪役」による理不尽な加害(陰湿ないじめやパーティからの追放)がこれでもかと行われ、後半に悪役がその報いを受け惨めな姿を晒す(ここが最大の見どころであり、視聴者の溜めた鬱憤を一気に放出する)といういわゆる「スカッとする」展開が半ば様式美的に受け入れられている。

 こうした負の感情のカタルシスと解放は言わばポルノによる性欲の発散(自慰行為でスッキリする)と同じ構造であり、見る者に大きな快感を与える。また視聴するにあたって人目をはばかるポルノと違い、こうした悪人が成敗される「スカッと」系のコンテンツは正しい社会通念として受け入れられている分堂々と視聴できるというメリットもある。

 最近はこうした「スカッと」なコンテンツがあまりに氾濫しているため食傷気味な方もいると思うが、世間の傾向からも解る通り私たちは基本的にこの手の物語が好きだ。「恨み」や「復讐」を好むのは別にその人が陰湿だからとか陰キャだからとかでは無く、そもそも人間の本能としてそういった物語を好む傾向にあるのである。

 誤解しないで欲しいのは、私は恨みを抱いている人にポルノ中毒者というレッテルを張って批判したいのではない。恨みに囚われてしまうのが人間の認知特性によるものだとしたら、むしろそれを本人の努力不足や性格の問題として片付けてしまうのは危険だ。

そもそも私たちが恨みを捨てられないのは「因果関係を求める」という本能に由来している。

やや話が脱線するが、古来ホモ・サピエンスは非力な動物であり、厳しい自然環境をサバイブしていく為には知能を用いて未来を予測する事が求められた。暦の発明などはその最たるものだ。故に人間は物事に因果関係を見つけると「ホッとする」生き物なのである。因果関係が解っているなら原因について対策ができ、生き延びられる可能性が高まるからだ。

 そして、それと同時に私たちは因果関係が見いだせない物に対して激しく動揺し恐れるという習性を持っている。ホモ・サピエンスの認知には「理由の解らないもの(幽霊や超常現象などもこれに当たる)」を極度に恐れるという性質があるのだ。

 故に私たちは「因果関係」が解りやすいストーリーを好む。先に挙げた復讐モノ、追放モノなどはその一例に過ぎないが、「悪い事をしたら報いを受ける」「正直者は救われる」といった物語を見ると我々はホッとする。そして同時に悪人がのうのうと生活していたり、可哀想な人が報われない姿などを見ると我々は動揺する。こんなことがあってはいけない、正さなければならない間違いだ─という具合に。それは私たちが内面化している価値観では受け入れられない物であり、そういったものを目にすると「世の中因果応報だと思っていたのに、自分の価値観は間違っていたのか!?」と自分の世界が揺るがされるような衝撃を受ける。

 「過去の抑圧経験が忘れられない」「昔言われたことがいつまでも許せない」といった現象も同じである。フィクションとは違い、多くの場合そういった抑圧経験において恨みの対象が「天の裁き」を受ける事は稀である。自分に対して酷い事をした人間が特に裁かれもせず(なんなら幸せそうに)生活している姿を見ることは「因果応報」的な価値観と著しく反する為、非常に認知的ストレスを伴う。要するに「バツグンに効いて」しまうのだ。

 しかし、それが自分の中で「ありえない」事であればあるほどそれを「正さねばならない」という思いが強くなっていく。そして「誰かから抑圧を受けた」という経験はその人物に全力の悪意をぶつける事に理由を与えてくれる、いわば他人を謗る事への「免罪符」としての側面を持っている。 
 誤解を恐れずに書くが、過去の負の経験を忘れられない人にはこの「免罪符」の虜になってしまうあまりいつまでも抑圧経験を抱え込み忘れられない人々が多い。必ずしも自覚的ではなくとも、「アイツを恨むことは正しい」という論理によって抑圧された経験を自分のアイデンティティの核としてしまい、自分の存在を「恨み」や「復讐」に依存する存在にしてしまうのだ。

 言うまでもないが「加害した側が悪い」というのは正しく、加害者を恨む事は人間として正常な反応である。しかし同時にそれに依存してしまう事は「恨む事をやめられない」という消えない呪いでもある。
「私だけ辛い思いをするなどあってはならない。アイツも不幸になるべきだ」─そう思うのも無理はない。しかし、それは前に進んでいく為ではなく、自分を納得させる為、因果関係の整合性を取る為の行為でしかない。何より憎い相手の事を考える事に貴重な人生の時間を費やすことは矛盾している。

 現実の世界は人間の頭で思い描く程単純には出来ていない。そこには数えきれないほどの変数があり、偶然や運勢がある。それらは時に我々にとって理不尽な現実として映るが、「そういうもの」として受け入れていくしか無い。いじめっ子が幸せな家庭を気付いている場合もあれば、誰から見ても善良な人が首を吊ったりする。うんざりするがそれが私たちの生きている世界だ。
 だからこそ人間社会は「善い人は救われる」「悪人は裁かれる」といった価値観を作り出してきたのだが、それに拘るあまり自縄自縛になってしまっては意味が無い。自由に生きたいと願うなら、頭の中の整合性にこだわるのは程々にしなくてはならない。

 抑圧経験を持つ人にとって前に進む唯一の方法は「忘れる事」に他ならない。悪人に天の裁きは来ない。自らの非運を嘆き、敵を呪っていればいつか報われるという事もない。自分の運命は自分で切り開かなければならないのだ。「今すぐに因縁をきれいさっぱり忘れろ」等と綺麗ごとを言うつもりはない。私たちが受けた痛みや傷は紛れもなく本物であり、その傷を癒すことはできないかもしれない。しかし、あるいはだからこそ、新しいページを紡ぎ、傷を薄れさせていくしか方法はないのだ。さながら新しい皮膚が生まれ傷が目立たなくなっていくように、自らが前に進み精神の新陳代謝が行われていけば心の傷は少しずつ、しかし確実に忘れられ、見えなくなっていく。
相手を許せなくてもいい。ただ「忘れていく」事こそが前に進む為に必要な事なのだ。

 



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